caguirofie

哲学いろいろ

ルウソ――または教育について――

#25

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第二十七章 もうひとつの結び さいごに もし 表現形式で原初的なα類型を・あるいは交通形式で自然人の原点を 想定していたとするなら これを 途中で捨ててしまうのは よくないように思われる。途中から 出発点の社会人…

#24

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第二十六章 表現形式にかんする一般文法 社会行為は 交通行為である。交通行為は 意味内容の伝達という観点から見れば ことばを用いているのであるから 表現行為を伴なっている。交通の規則すなわち慣習にしろ法律にし…

#23

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第二十五章 表現行為とその出発点 表現――交通出発――の自由は 論理的・理念的にいえば それが 原点自然人のものであるからである。実際にいえば 抽象的なそれぞれの民族言語の表現類型によるそれとしての井蛙y区と 出…

#22

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第二十四章 表現の自由 主観真実の表現の諸形式を 民族言語という次元と観点からとらえて 前章では 二つの類型に分けた。おおまかに言って 主観真実の主体 その人格の全体にかかわる出発点の生活態度 これを 交通のな…

#21

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第二十三章 表現類型 これからあとは ことばによる表現の問題という一点で 前章の議論を補うためのものである。それぞれの言語の比較 いや対照といった一つの主題をとおして。

#20

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 余録――ことばの問題をとおして―― 第二十二章 用語を整理しつつ

#19

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第二十章 交通 交通 交通 《社会契約論》にかんして ここで ひと区切りを打ちたいと思うのだが それには 次の一論点をさらに見ておくのがよいし 見ておかなければならない。 これまででは 《社会契約》を《最初の約束…

#18

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第十九章 社会 社会 社会 《社会契約論》をとらえるにあたって あまりにも図式的であり かつ 話題を強引に 教育の問題に引きもどしたことになった。しかし 弁明するよりは このままの線ですすんだほうが 議論は生産的…

#17

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第十八章 教育物語としての社会契約論 しかし この宗教(市民の宗教)は迷妄と虚偽に基づいているので 人々を欺き 彼らを軽信的 迷信的にして 神への真の信仰を空虚な儀式のなかに埋没させてしまう点では 悪しき宗教で…

#16

もくじ→2005-11-28 - caguirofie0511128 第十七章 社会契約論への異議 《最初の約束》から こんどはそれを《社会契約》として規定することへ移るところで わたしたちは 注意したほうがよい。または 異議をとなえたほうがよい。 国法または社会秩序の 由来を…

#15

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第十六章 エミル 社会契約についてまなぶ わたしたちが見てきた順序で 《エミル または教育について》 わたしたちが苦しんでいる病気はなおすことができるし よき者として生まれついているわたしたちは 自分を矯正しよ…

#14

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第十五章 つづいて同じく新しい出発の地点(あるいは進行の場) ここで わたしたちの出発の地点は 新たなものになっていることを 確認しておきたい。 自然人の原点にもとづいて 同感人の生活態度が 一般にわたしたちの…

#13

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第十四章 新しい社会人エミルとソフィ ルウソの《自然人原点》(§1−§6) スミスの《同感人出発点》(§7・§8)――ただし この生活態度のさらに具体的な出発進行の場であり行為である《経済人》については ほとんど何…

#12

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第十三章 ルウソの女性論への批判 したがって 私たちが段階的に内観を進めて行き 魂の種々なる部分を考察するなら そのとき私たちが動物とは共有しない或るものを見出し始め そこで内なる人がすでに認識され得る理性が…

#11

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第十一章 《ジュリ または新エロイーズ》 《エミル または教育について》が 実際に生徒エミルを登場させているからといって 必ずしも実地の教育実践ではない(――だからといってまた それが 経験的なものでないのでもな…

#10

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第十章 だから 文学(=生活) 《二重の人間》とは ルウソにとって まったく単純で明らかに 《自然人と社会人》との二重である。もっと単純にいえば 既存の社会制度(慣習)からと 自己自身の習性・習慣からとの 人為…

#9

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第九章 ルウソの一つの発展的な継承 《自然法》をいいだすなら この十八ないし十七世紀の思想家たち はてはヨーロッパ思想史の全体に触れなければならないだろうし ほかにも例えば《二重の人間》を論じたのなら――それ…

#8

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第八章 物言いをこえて 前章の補論をさらにおぎなわなければならない。 わたしたちのここでの主題は――ルウソにしたがって―― 人間の教育である。これは 具体的な制度方式をあつかわず 自然の教育にのっとる《人間であれ…

#7

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第七章 ルウソへの物言いの補論 例によって 長い文章の引用をゆるされたい。ルウソは言う。 生まれたとき 子どもが一人まえの人間の身長と体力をもっていたと仮定しよう。ちょうど パラス(女神アテネ=ミネルヴァ)が…

#6

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第六章 子どもの問題とともに つぎに 子どもの問題である。 子どもは 習慣に染まっていない。一般に より少なく染まっている。この意味で 自然人の確立が はやい。そして 自然人の確立がはやくできることと すでに自然…

#5

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第五章 自己到来のあとの自然人 すなわちすでにルウソの 表現行為としての実践は 自然人を知らなければならない目標に向かって 一例として 次である。 わたしたちの知恵と称するものはすべて卑屈な偏見にすぎない。

#4

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第四章 自然人の自己到来 前章で 実践の第一・基本形式とよんだものは ルウソに従えば 人間の教育と事物の教育とを 自然の教育に しかも人間の教育をとおして 一致させることであり 《自然人を知ること》あるいはさら…

#3

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第三章 自然の目標の実践形式 《エミル》という書物の標語として ルウソは 次のセネカ*1の言葉を掲げている。 わたしたちが苦しんでいる病気はなおすことができるし よき者としてうまれついているわたしたちは 自分を…

#2

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128 第二章 自然人と社会人と 《自然》の定義は それほど難しいものではない。すでに出て来ている。そして ただし 出てきている限りでは 《なぞ》の部分 もしくは《夢想》の部分が――さらにもしくは その夢想 rêveries のみ…

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