caguirofie

哲学いろいろ

#8

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第八章 物言いをこえて

前章の補論をさらにおぎなわなければならない。
わたしたちのここでの主題は――ルウソにしたがって―― 人間の教育である。これは 具体的な制度方式をあつかわず 自然の教育にのっとる《人間であれ》の実践方法をあつかうものであるから きわめて抽象的な議論である。しかも やはりルウソにしたがって この主題とそれにかんする主張が 抽象的にして経験的な実践であることを論じてきた。
したがって いま問題にしている《還り》の実践の側面は これも どこまでも 抽象的にして経験的な実践方法(基本形式)でなければならないし そうであることができる。そして経済学・社会科学は すでに習慣とからみあい制度と格闘する具体的にして経験的な実践であり そういう社会領域をあつかう。
スミスの《道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) Theory of moral sentiments 》は 《道徳 moral 》という点で・すなわち《習慣》領域を議論する点で いってみればルウソのいう《人間の教育》であり かつ そのようにすでに社会の中にあってのことなのだから 《還り》の実践であると 簡単にいえば言える。
しかも 同じくルウソのいう《自然の教育》を含む・あるいはそれにもとづく道徳哲学であることを 次のような引用文を参照するなら 明らかに示していると考えられるから わたしたちのいう《往きと還り》の基本実践を語ろうとしたものである。

宗教(自然の教育)は 徳性の実行(人間の教育)にたいして たいへん強い諸動機を提供し 悪徳の誘惑から われわれを たいへん強い諸抑制によって守るのであって そのために 多くの人びとは 宗教的諸原理だけが行為の称賛すべき諸動機であると 想定するように導かれていた。・・・
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) 3・4)

《導かれていた》と過去形でいうのであるから いまでは・そしてスミスにとっては どうであるかが 問題なのだが スミスはこの考え方を まったく葬り去ろうとするのではない。また後半の部分としては 《宗教的諸原理〈だけ〉が》という《だけが》の点に 疑問がおかれている。
すなわちスミスは こういった宗教的というほど一般に《往き》の考え方から《還》ってきて これを《検討する》。しかもかれは そのあと言うには 《この意見をくわしく検討するのに 時間をかけたくない》し そこから出てくる《問題についての決定が ひじょうに大きな正確さといえるようなものをもってあたえられることは おそらくできないのであり・・・》(道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) 3・4) まずは 《宗教 / 宗教的諸原理》といった表現の問題で争わないとすれば スミスも ルウソの基本実践――自然人確立――を是認しているといっていい。
スミスの《還り》の実践形式は こうである。還ってきた段階で個人として《社会人》に対するはたらきかけを たとえば《義務の感覚》をどうあつかうかで 議論する。すなわち 《義務 duty 》とは 社会人の習慣(その人間関係)に深くかかわるものであるのだから いま見ている道徳感情論の同じつづく箇所で述べるには――

義務の感覚(つまり広くいって人間の教育)が われわれの行動の唯一の原理であるべきだということは とうていキリスト教の戒律(その意味での 自然の教育)ではないが しかし 哲学が指示するように また常識さえもが指示するように それは支配的および統制的な原理であるべきなのである。

  • と一歩すすんで――つまり往ったあと還ってきて―― 位置づける。

しかしながら どのようなばあいに われわれの諸行為が 主としてあるいはまったく 義務の感覚から あるいは一般的諸規則(つまりやはり人間の教育の)への顧慮から 生じるべきであるか そして どのようなばあいに ほかの感情または意向が 協働し 主要な影響力をもつべきであるか ということは問題であろう。
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) 3・4)

そうして――先にも見たように――《この問題についての決定》は 一概にはあたえられないというものである。この問題についてのスミス自身の検討は それをいまわれわれがさらに検討しなくても 議論に大きな差しさわりが出てくると考えないから ここで スミスのおこなおうとする実践形式の性格について まとめてみることができる。
すなわち すでに見てきたようにルウソの《還り》の実践は 例えば《哲学者たちのあいだでは大胆に神(《自然の行程 natural course 》=道徳感情論3・3)を認め 不寛容な人びとにむかっては大胆に人間愛(《義務の感覚》)を説くのだ》というものであったが スミスでは次のようである。ルウソの《自然の歩み》にくらべられるスミスの《自然の行程》の論点としては 《往き》の実践をそのまま保つことである。

このようにして〔煮詰めた議論としては〕 われわれが 〔義務をなきものにする人びとがその〕不正を勝ちほこるのを阻止しうる 地上のどんな力も見出すことに絶望するとき われわれは自然に共に訴え つぎのことを希望する。それは われわれの本性の偉大な創造者が われわれにあたえておいた諸原理(自然法)のすべてが この世においてさえわれわれにおこなうように促すところのことを やがてかれがみずから執行するであろうということ かれは かれ自身がこのようにしてわれわれに 開始するように教えた計画を 完成するであろうということ そして  きたるべき世において各人に かれ(各人)がこの世で遂行してきた仕事に ふさわしいものをあたえるであろうということである。
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) 2・3)

人間のなしうる《義務の感覚》の論点としては すでにその問題点があげられていたわけであるが 《それは 哲学が指示するように また常識さえもが指示するように 支配的および統制的な原理であるべきなのである》と 積極的にいうところのものであった。
すなわち ルウソと同じく 《不寛容な人々にむかっては大胆に 人間愛を説くのだ》し さらに義務の感覚が 《支配》してもよいというのである。そう《あるべきなのである。しかしながら・・・問題》はのこるともいうかたちである。なんでもかでも 義務の感覚から わたしたちの行動をおこしてよいわけではないという言い方をする。こうして それは 《感情や意向が 自然の快適さを持つかどうか あるいは 義務の感覚が内容とする一般的な規則(たとえば《人間愛》)が 明確・正確なものかどうか》によると 論じていく。こうなのだが だとすると結局 このスミスとそしてルウソとの間には 次のようなそれぞれの性格にかんする比較を得ることができる。
ことは いま 《還り》の実践――子どもの段階でひととおりの教育をおえたあと 相互の自己教育として 社会の中で人間に対してどうふるまうか――にかかわって ルウソはどちらかというと 《往き》の実践――自然人確立――に重きをおいて 還りでは ただ例示的であるのみだ そしてスミスは この還りをも往きと同じように 重視し全面的に肯定し しかも それは 決定的・固定的であるのではなく 事情と場合とに確かに依存するという言い方なのである。
そして――そして――こうであるならば 両者は けっして たとえば《人間の教育》という主題のもとで 互いに隔たっているのではないと帰結することができる。帰結することができるのではあるが そこに微妙なちがいがあるとしたなら それは どういうものか。
この点でわたしたちは前章で そのちがいのほうをとり上げた。この点をもう少し詳しく明らかにすべきである。
基本実践を 往きと同じくその還りをも重視して省みるスミスは その意味でこそ 道徳感情論または道徳哲学の議論を おこなっている。教育の主題にあてはめてみると 自然の教育と人間の教育との一致を 往きも還りも あつかうのであり しかも どちらかというと 教育哲学ないし科学としての教育というのが その論調となっているのではないだろうか。
《同感》も わたしたちは《同感人》というかたちでは すでに 《自然人》と同じだと考えてきたのであるが 一つに この自然人を確立した人間が 社会的に――その意味で道徳的に―― すでに還りの実践で 良心(内なる人)や義務の感覚をその内容としておこなうその判断の基本(または 判断行為そのもの)を 言っている。また この同感 sympathy を打ち出すことによって 必ずしも内面的な良心や義務感のことを もう つねには持ちださなくともよい方向へ すすもうというかのごとくである。
だから 二つに スミスの議論は 道徳とはいうものの 規則とか規範として 何をどうせよというかたちを必ずしも取らずに 道徳感情を主題とした社会行為の理論であり 教育にあてはめるなら 《同感》概念を基軸とした人間の教育の《理論》 そしてその限りで 教育学となっている。ルウソが

子どもに教える学問は一つしかない。それは人間の義務を教えることだ。この学問は単一の学問だ。
(cf。第六章)

というとき これは 理論ではなく また その意味で 自然の教育をいつも最先行させる中軸としており その内容は つねに自然の歩みにちかづき自然人として前進するための 人間のことばによる表現という・そのかたちでのすでに直接的な実践となっている。これらは スミスとルウソとの 性格のちがい いや表現形式(基本的な方法ではなく こまかい方式)の特徴のちがいである。図式として ルウソは主観実践的であり スミスは客観理論的(?)である。
かんたんに このようだと考えるが この点から それでは どういうことがいえるか。人間の教育を主題とするとき そのなかで広くは事物の教育ともいいうる社会科学の探求はいま措いて考えるなら 一つに・初めに ルウソの行き方・つまり 自然の教育を最先行する中軸にすえること これが来るはずである。二つに それでも スミスのいうように 人間の教育をいまひとつの中軸として 社会の中に還ってきて 実践せざるを得ない。三つに これら二点の結果として 第二点の実践を 第一点のルウソの行き方でおこなうこと。
その意味するところは とくに還り(要するに ふつうの社会生活)では スミスの提出するような教育の理論を ルウソの行き方で 活用していくこと。たとえば《哲学者たちのあいだでは大胆に神をみとめ》るという一つの方式 これが 義務の感覚で なんでもかでも 固定するというわけではなかったから 哲学者たちの用いる概念(ことば)で つまり理論を道具として 活用し 対話するという考え方・行き方。そして これは 《宗教的に不寛容な人びとにむかっても》結局 同じであると考えられる。――けれども
けれども このことは あたりまえである。わたしたちは 常識にもどってしまった。ただ このような思索の過程で そこになんらかの新しい視点を得ることができているとするなら それは ある意味で強引にとりまとめるのではあるが 往きと還りとをとらえるという線にそっては 《自然人=同感人》という自己認識・自己到来が その中にさらに 社会生活の基礎のいとなみとしては スミスにしたがって《経済人》の側面を含み持ち得て 存在しているということになるとは思われる。社会総体の動きをとらえる経済学・社会科学は まだ その先にあるのだが その社会科学の主体・そしてその意味での出発点は この《自然人=同感人=経済人》たる一人ひとりの人間であるだろう。
ルウソは 還りの方面の実践が 表現上 希薄であったとしても 《同感人》――たとえば 自然人確立のあとのという点で《抽象的な人間 人生のあらゆる事件にさらされた(だから むしろ具体的なそして個別的な)人間》(cf・第二章)――までは 語っているし そして 《経済人》も すでに《社会人》を見ているのならその限りで 考慮の外におかれているのではない。また この最後の点では 考慮の結果が 明らかにされているとは 必ずしも言えない。そのルウソに――そのルウソの議論に―― スミスの考察は 哲学・理論として 補助道具となって みづからを提供している。
スミスが 《義務の感覚は 哲学が指示するように また常識さえもが指示するように 支配的および統制的な原理であるべきなのである》というのは その条件を示そうとしての上でのことであるように 義務の感覚(つまりそれとしては ルウソから見て人間の教育にとってのただ一つの学問)を 常識の主体つまり人間が用いるところの補助思考たる哲学理論として 明らかにしようとしたことである。
義務の感覚が それの哲学的な分析と思考成果とを含み持って 社会の中での実践としては《支配的および統制的な原理》となるのは 《エミル》ふうにとれば 自然の教育にもとづき 自然の教育の結果としてのみなのであるし 《道徳感情論》ふうにとれば それがけっして《決定的》な動機であったり規則であったりするのではないということを 前提しているであろう。すなわち スミスの道徳感情論は ルウソのエミルに対する 補助道具であるといっても 一方を貶め他方を優れたものと見ることを 意味しない。なぜなら 還りの実践では たしかにもはや その人間の意志の自由な判断・選択・実行が 基本となっているから一義的に その副次的な方法を ましてや制度方式を 決められないのである。道徳感情論は したがって エミルの一歩先をすすんだとも考えられ ただし その内容としては 一歩先へすすんだその実践領域じたいの問題によって 教育の基本形式への理論的な思考補助たらざるを得ないのだと考えられるのである。教育制度の理想的な諸方式だとか 社会行為の道徳哲学上 最高の形式規則だとかを きちんと決めようとしたのではないから。
同感が これら教育のや社会行為の主体つまり人間を 同感人として指し示し これが すでに見たように 自然人確立の線にそって位置づけられているとしたなら 道徳感情論は エミルを凌駕した。同感とは 自然人たるわたしの主観(その動態)が――とうぜん普遍的な――共同性をもつことである。これは 自然法自然法たる所以でもあった。そして そういうふうに捉える視点は どちらかというと――表現形式の特徴のちがいといったことなどから―― エミルが提供しているように思われる。自然法の理論を提供することによってではなく 自然法主体であれという表現形式の一貫した特徴ただそのことによって。
もっとも自然法などという言い方を持ち出すことは ルウソの意にそわないことであるかも知れないのだが。
社会科学 しかも個人の問題で 経済人のあり方 これらは その先である。