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哲学いろいろ

哲学とは何か? 今一度原点に戻ってみる。

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1. 哲学は フィロソフィアを哲学と翻案したときから 《生きること》を意味するようになりました。

と強引に規定したいと思います。

 
2. したがって:
●:物事を疑うことから哲学が始まる
☆ に代えて こう言いかえます。《世界にある自分を――ものごころがついて――認識する前から その自覚のないままにも人は 生きているからには 哲学して来ている》と。

3. たとえば 赤子が母親にあまえる。この甘えが 哲学です。

 


4. つまり なんの考えも計らいもなく全面的に身をゆだねすでに心をもゆだねているかのように世界を生きている。という哲学。

5. これは 《聖なる甘え〔という生き方〕》なる哲学だ。




6. むろん 誰しも ものごころが着いて来ます。《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。あるいは ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼を受けるようになります。

7. では このとき聖なるあまえは どうなるか?

8. 幼虫がさなぎになる聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。




9. きよらかなおそれという哲学は じつは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。

10. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトに生まれつきそなわった自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ哲学だと言いたいためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。


11. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであると
き その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母
親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれ――このようなおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置きかえるようになる。




12. 言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――お
それすらを――まだ持てない状態であった。

13. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなの
であるが その同じ内容が――ナゾの何ものかをあたかも忘れてのように―― 主観の内面における具体的な思惟や意思決定において〔おそれとして〕現われる。

14. どういうことか? ――これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。

15. ウソをつくとき・イツハリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身
も顔を赤らめ言葉はしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やまし
さを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。

16. つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。良
心のハタラキだとも言える。




17. ●:常識を超えて本質を問い続けるのが哲学
☆ だということで かなり飛躍した常識破りを強引に敢行してきましたが 何のことはない。つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》を 生き方である哲学として積極的に提起するのである。

18. 《聖なる甘え》と同じひとつの道程だと言いたい。ヤマシサ反応をないがしろにせず 恥ぢを知り きよらかなおそれを抱く姿勢は 《常識を超えて本質を問い続ける》道ではないか。




19. われわれの主観はそれぞれつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツハリ)を仕出かし そのつど軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。

20. 重ねて言って《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。


21. つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成
す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠におい
て――受け容れたことを意味する。


22. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 
或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れて
いるものであるはずです。(無条件の無根拠にて受け容れているという意味です)。

22-1. 哲学としての基礎(basis: 歩み方)が この小径だと見ている。

21. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。







23. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――
《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・そ
の限りで〕有効であるが しかも議論を端折った単純な言い方をすれば 社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に じつは 無力となる。(無力だが なお有効である)。

24. この情況における《わたし》は どう生きるか? 《きよらかなお
それ》のゆくえは?




25. 聖なるあまえ・もしくは きよらかなおそれ・あるいは《恥ぢ》を
失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆく観
念のブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対し
て これを精神の胃袋では消化しつつ おのおのの志とともに引き受けるということ。言わば泥をかぶるということ。ふつうは いやいやながら 《アース役》となる。

26. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。あたらしく大いなる哲学の実践が始まる。
 

23-a. わが自然本性の生きた明かしである《きよらかなおそれ》は 既存の風潮やこれを保守する勢力の前に じつは 無力となる。

理論として基本として有効だが 無力となる。仮象と化して無力だが なお有効である。生きている。

24-a. この情況における《わたし》は どう生きるか? 《きよらかなおそれ》のゆくえは?


25-a. 聖なるあまえ・もしくは きよらかなおそれ・あるいは《恥ぢ》を失わないならば 観念のブルドーザーのごとき世間なるチカラに対して これを精神の胃袋では消化しつつ おのおのの志とともに引き受ける。言わば泥をかぶる。ふつうは いやいやながら 《アース役》となる。
《ガミガミ役》も 誰かに対してはアース役となっている。

26-a. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。あたらしく大いなる哲学の実践が始まる。





27. 世間という社会力学は シガラミのようである。あるいは ジャングルである。――しかも あたかも随神の道なるきよらかなおそれという哲学は この密林を拓きゆくちからに満ち満ちている。


28. シガラミは 有力だが無効である。哲学は無力だが 有効だ。 

29. シガラミは ゴミである。しかも しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらいその地位にあって身を飾り立てている。アース役は このごみを呑み込みつつ 浄化再生処理をしていくということ。

30. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。究極の哲学だ。



31. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。

32. 初期条件はただヒトに生まれて来たというだけの無条件の情況である。その中で哲学は 無根拠なる根拠において ごみ処理工場と成る。

33. きれいな酸素をも供給するらしい。
 
34. 義(オシヘ)無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念として・あるいは《本覚思想》として すでに打ち出されているようであるらしい)。

34. ひとびとよ おのがさとりを得よと。

35. ○ ・・・なびけこの山

36. ○ ひむかしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ
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