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哲学いろいろ

 《哲学者カントは、良心の呵責について・・・》

【Q:良心の呵責を感じることはありますか? -哲学者カントは、良心の呵責に- 哲学 | 教えて!goo

 哲学者カントは、良心の呵責についてこのように述べています。

「人間が良心の呵責によって感じる苦痛は、たといその根源が道徳的であるにしても、結果からいえば、
哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。」
参考:カント 道徳哲学 岩波文庫 p.41

つまり、良心の呵責は、たとえ道徳的であったにしても、自然な感情から来ている。恐怖とか、哀愁とかいったように。

あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
それはどんなことですか?

 

1. 《良心》とは ひとが考えたりその考えをオコナヒに移すときに その

中身によってはヤマシサや恥ぢを感じさせるように胸をドキドキさせ顔を赤らめさせるそのハタラキです。

 



1-1. 生まれつきそなわった自然本性としてのチカラです。

1-2. ヤマシサや恥ぢの上にさらにおのれの考えとして良し悪しを思い成すという判断やその判定した内容をも言う場合があります。 



2. 《良心の呵責》という場合には すでに思わず知らずに成したオコナヒについて 恥ぢつつ悔いる――悔いつつ恥ぢる――ときの思いや〔その確認としての〕意識です。


2-1. ▲ 良心の呵責によって感じる苦痛
☆ というこの《苦痛》という言葉は 必ずしもふさわしいとは思えません。


2-2. 悔いるそして恥ぢるなら 《思わず知らずオコナヒを起こす》よ
うなことをしないようにしようと心に言い聞かすはずです。苦痛の問題とは 別です。


2-3. もし苦痛を伴なうような咎めを良心なるハタラキが 起こしてい
るとしたら それは すでにオコナヒに当たって恥ぢやヤマシサ反応を感じ
ながら・しかもこれらにさからって冒すことになったという場合です。

2-4. すなわち もしおのれのオコナヒについて良心が咎めそれによっ
て悔いる恥ぢが 心の苦しみや痛みにまで成るとすればそれは みづからが
その答責性を果たすという問題です。

2-5. つまり 焦点・力点としては苦痛の問題ではなく 冒したオコナ
ヒがもたらした損害をつぐなう問題です。原状復帰という責任のそれです。




3. ▲ 道徳
☆ というのは 良心のハタラキや良し悪しの判断あるいはツグナヒをめぐ
ることがらについて そのナラハシをしらべ一般性のある内容を取り出しこ
れを規範としオシヘとしてまとめたものです。


3-1. つまり 良心にかかわる人間の意志行為とそれらの錯綜する社会
的関係 つまり倫理の問題――この倫理をめぐる規範というのは すでに二
番煎じであって 極端に言えば どうでもよいものです。屁の河童です。


3-2. すなわち:
▲ 良心の呵責によって感じる苦痛・・・の根源が道徳的であるにしても
☆ というくだりは 表現だけではなく 人間の自然本性にそぐわない人間
性の認識にもとづいています。


3-3. 人間性の《根源》としてたとえば《良心》を持ち出すばあい そ
れは ふつうに人間関係という意味の倫理の問題であっても 道徳といった
倫理規範の問題ではあり得ません。

3-4. また 《苦痛》は 主役ではありません。責任を果たすことが主
役です。( 2-3 ~ 2-5 )。




4. いや だから 苦痛は《自然的だ》と言っているではないか? つま
り:
▲ ・・・結果からいえば、哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、
自然的である。
☆ と。


4-1. いやいや いやいや。道徳は二番煎じであって《根源的》ではな
く 答責性が主たる事柄であって《苦痛》は主役ではないということが明ら
かになったとすれば いちいちこのように 恥ぢや咎めが《自然的である》
と――何かの問い求めの結論として――言っているのは おかしい。話の順
序が ぎゃくなのだ。すべて良心――恥ぢやヤマシサ反応――に始まる。

4-2. おかしいのは 況や:
▲ 病的状態
☆ たる規定においてをやである。良心は・その恥ぢ意識は・そして時には
その咎めは すぐれて人間的であり すこやかな人間性そのものなのだ。


5. イマヌエルくん あやまてり。