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哲学いろいろ

哲学する者は神の国の外交官である。――は成り立つか?

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10295661.html


1. わが心なる《非思考の庭》は 言わば《神の国》である。

2. ひとは 自然本性として身と心がそなわっており 身は 感性の
原野を成し 心は 思考の緑野としてはたらく。これらは 経験世界の
内にあり 経験事象と対応している。

○ 自然本性:身(身体)と心(精神):経験存在
 心:【考える】:思考の緑野
 身:【感じる】:感性の原野

3. しかも人は これらの身体および精神だけではなくそれらを超え
たナゾのチカラをも自然本性プラス・アルファとしてのごとく そなえ
ている。――これは ふるくは ブッダター(仏性)やアートマン(霊
我)あるいはプネウマといった神の霊なるチカラとして捉えられたもの
である。

4. このナゾのチカラを 《非思考の庭》と呼びたい。具体的には
《心の明け》としてのごとく 知恵としてヒラメキを得させ 良心と
して身体の神経組織で恥ぢを知らしめるヤマシサ反応を起こさせる。

○ 非思考の庭とは 心が閉じられていないことである

【信じる】:非思考の庭:聖霊(知恵・ 良心)・・・・【神の国
               ↓   ↓
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【考える】:思考の緑野:  ヒラメキ ↓ ・・・・・【地上の国】
【感じる】:感性の原野:      ヤマシサ反応・・【地上の国】



5. 信じる非思考の庭は 経験的な存在である人間すなわち《われ》
の内にやどっている。これを 《神の国》と呼ぶことは 哲学はゆる
すか? 神とは 普遍神である。

6. 哲学する者は 神の国の外交官(アポストロス)として生きる
と言えるか?

7. 地上の国のみで生きる人に対して 外交官は その人たちそれぞ
れと同じように成って 外交活動を繰り広げるであろうか。

8. ムンジェインやキムジョンウンあるいはシーチンピンと同じ思考
や感性をおのが内にあたかも開発して 対話を推し進め得るか。

9. アマテラシテ天皇やアマテラス公民なる人びとそれぞれと心にお
いて同じように成って 社会と人間のあり方について 話し合いをすす
め得るだろうか。

10. こういう話はあり得るか?




【Q:感覚と感情に付いて。】

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10288113.html


No.4

こんにちは。

1. クオリアについて 昔からの真善美の一体なる理論とそして
わが《あくがれの理論》をつうじて問い求めてみます。

2. 《真善美の一体》説については 次の質問の趣旨説明をごら
んになってください。長くなるので端折ります。
【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10243037.html

2−1. かんたんには 真と善が 普遍性を持つのはよいとして
も 美は 人によって千差万別ではないか? という問いに答える
ものです。

2−2. 真とは ひとの相対的な主観真実を超えた絶対性として
の真理を言い 善とは やはり経験事象としての相対的な善悪のこ
とではなく 善悪の彼岸とも言われる至高善( summum bonum )
のことです。

2−3. これら真理と至高善と一体である美とは何か? やはり
同じく 相対的な美醜を超えた美である。

2−4. となると 問題は 真理と善と一体なる美が 経験世界
では 人それぞれのさまざまな美(ないし美醜)として現われるの
か? つながりはあるのか?





3. さて あくがれの理論にすすむ前に 《感覚と感情》につい
て考えておきます。
4. 広く《感性――身における神経細胞等のハタラキ――》とし
ての《感覚》は 世界の人や物事から受ける刺激を知覚したそのも
のを言うと思います。――《その人はうつくしい》と表現する前の
《あは !( Ah ! Oh ! )》なる知覚。

5. 《感情》は ことば(≒概念)で表現したあとに持たれる感
覚ではないだろうか。

5−1. 第一次知覚としての感覚をひとが意識する。あるいは 
概念(≒ことば)として認識する。そうしてこの認識や意識の内容
を知解が理解しようとしたり意志がどう扱うかを思ったりするとき
そこに(一般に心に)抱かれる気持ちである。
――《ああ うつくしい人だ》なる第二次感覚としての第一次感情
は その情感としてさらにさまざまに発展する。





6. さて あくがれの理論である。
【Q:うつくしさは あくがれの問題か?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10255999.html


7. 《このうつせみのワレ(≒アク)からの離脱》ないし《脱自・
エクスタシス 》――これが あくがれ(=あこがれ・憧)である。

8. ならば このうつせみの世の相対的な美醜や浄穢を超えた・
真善美なるミナモトの美につながっている。と考えられる。



9. 高梨沙羅は ジャンパーとして理想のパーフォーマンス――
つまりその美――にあこがれた。これを 問い求めた。

10. 伊藤有希や岩淵香里は その沙羅の《求道》のすがたに心
打たれた。あこがれた。幼なじみで同級生の勢藤優花は 沙羅のア
クガレを愛しとうとんだ。


11. つまり・すなわち 《クオリア》とは このようなアクガ
レ〔としての美学〕にかかわって おのおのの心に起きている〔か
に思われる・いわく言いがたい〕質感であろうか。


12. われ(≒アク)からの《離脱》というよりは 《自己の超
越》と言ったほうがよいかも知れません。

13. あるいは 《脱自》と言いますが 必ずしも《脱》ではな
く 自然本性なる自己になおそなわったかに思われるプラス・アル
ファとしてのたましひ(または ブッダターやアートマン)のこと
かと推し測られます。

14. ヒラメキや良心のハタラキに似て アクガレの場合には
そこに ふとキラッと輝くまぼろしを見たというような体験ではな
いだろうか。そこから 感覚以上のクオリアなる感じがいだかれる。


15. ただし かがやくもの 必ずしも金ならず。でしょうか。