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哲学いろいろ

生活を微分したら・・・

生活を微分したら 信仰のイメージがついて来た!?

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

1. ひとの生活を微分したらどうなるか?
それが 非思考の庭――信仰なる動態――のイメージとなるのではないか?




2. 《わたし》の生活を・思想を・存在を・人格を・人生をあたかも微分したら 信仰
についてのイメージが得られるのではないか?

3. 次の図式における《自然本性プラスα》が その信仰としての傾きであると。

  ○ 《わたし》なる存在

   [自然本性+α]:霊我: 信じる:非思考の庭(ヒラメキ)
   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   [自然本性]:精神(心): 考える:思考の緑野(コギト)
   [同  上]:身体(身): 感じる:感性の原野(直感)





4. すなわち 無神論なる信仰のばあい――《神を信じない すなわち 無い神を信じ
る》場合――は 身と心から成る自然本性のほかには何も無いと信じる(無条件にそう受
け容れる)。

5. こう捉えるならその限りで――その無神論者の生活をあたかも微分すると――非思
考の庭は フラットな横の一線になる。あるいはつまり おのれから等間隔に引いた線と
して 円になる。いや 球となる。球面になる。

6. その円周 いや球面というのは 理念としての思想である。自分のえらんだ言わば
《義》としての信念である。その義を 存在意義としての義としている。

7. つまり 無神論者の理念は 互いに対等なる等距離外交である。
 
8. それに対して 有神論の信仰のばあいは――きよらかなおそれを抱くこととしても
イメージされると思うが それを措くとして―― けっきょくその生活や人格を微分して
も結果は出て来ない。微分することはむつかしい。カタムキが無い。頻繁にエポケーして
いる。その意味で不連続である。飛び飛びである。

9. 先ほどの言い方に倣うならば 《義無きをもって義としている》。

10. だから 円も球もない。もしそれでもイメージを呼び起こそうと思えば この微
分の結果というのは――変な恰好であるが―― 自然本性 + α としての霊つまりエーテル
のようなものである。無神論者にとっての球面の代わりに エーテルのようなものとなる。

11. 先ほどの等距離外交なる方針に照らし合わせるなら 《大道は無門である》であ
る。神を受け容れているひとには 無神論者の抱いていると思われるところの《信念》が
無い。(固まった信念はないのである)。《義》が無い。心に囲いが無い(心の明け)。
無門。もっと言えば 能天気である。





12. なお いわゆる宗教のオシヘを《信じている》場合というのは――けっきょくオ
シへは言葉で表現されているからには《考える》ものであり 《非思考》にはならないの
で―― 思想としての信念たる義を抱いている。つまり 無神論者のタイプになる。

13. 無神論者と宗教者およびその信者は その《わたし》が一個のボールのようなも
のである。

14. 神をいだく人は 心に囲いが無いから それらの《ボール》を目の前にしたら―
―野球のボールかバスケットボールかラグビーボールかは知らないけれど――それぞれそ
のままを受け留め 往々にして受け容れてしまう。

15. そのボールの――精神の遍歴としての歴史の――積分たる心に寄り添ってやりそ
の中の交通渋滞をも受け容れあたかも引き受けてやってしまう。こうして 現代の病いが
起きる場合もある。起きなくても 受け身でありアース役に成っている。




16. たぶん現代ではない過去の時代と社会にあっては 互いにみんながみんなで人び
とそれぞれの心の交通渋滞を受け留めあっており 相身互い身 引き受けてやっていたの
かも知れない。心のモヤモヤは 分散し稀薄となっていたかも。

17. 現代ではそのような人びとの互いのきづなが ほどけて来たのか。あるいは 朽
ちて来てしまったのだろうか。分散・稀薄化がとどこおった。か。

18. ここでは 有神論および無神論としての信仰の視点を推し出しまた切り口として
いますが 現代の人間と社会についてさらにみなさんからご見識をたまわりたいと存じま
す。

19. ただし質問者として納得の行くまで問い返しつつ問い求めをすすめてまいります。

20. 取りあえずは ご自身の生活を微分してみてはいかが? といったおすすめにな
っていますが その点についてはどうでしょうか?