caguirofie

哲学いろいろ

両義性の分かれ道

#18

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-14 - caguirofie101014よりのつづき) われわれは 次のように結論してよい。 桑原武夫は 西欧近代市民の十全なる合理主義(それは もちろん 西欧市民のスサノヲイスムに発し キャピタリスムを興し それに伴…

#17

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-13 - caguirofie101013よりのつづき) かれらの遊びが実際に集団的基盤において生まれ 守られていたことや か れらが倫理的徳目から完全に自由な場所で その後の日本の伝統詩がついに強 力にうけつぐことの…

#16

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-12 - caguirofie101012よりのつづき) 大岡の理論にかんしては 初めから述べきたった (A)ないし(B)の両義性およびその多義の構造への視点とともに このような治外法権の領土があるように思われる。これ…

#15

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-11 - caguirofie101011よりのつづき) 引用である。途中に注釈をはさむ。 人麻呂について純粋とか単純とか全心の集中とか言って(* これは 赤彦 らの立論である)みたところで仕方ない。 * そしてわれわれ…

#14

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-10 - caguirofie101010よりのつづき) いま この小論では 《西欧とその倫理》については直接あつかっていないのであるから この議論は措かねばらない。しかし《万葉詩人たちの言葉の世界》にかんして 大岡…

#13

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-09 - caguirofie101009よりのつづき) これは 大きく《西欧》と《日本》とのやはり両義性として現われてくる問題である。ここでは これ以上 すすんで述べない。 * 述べないが ただ一言つけ加えておきたいと…

#12

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-08 - caguirofie101008よりのつづき) すなわち 片やこの《酔いどれ船》は こう述べたのち ああ わが竜骨よ 砕け散れ おれは 海へ往くのだ と叫んでいるが 片や《彼女の薫る肉体》に出会っても 《私》は 《…

#11

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-07 - caguirofie101007よりのつづき) ここで 単に或る一部分を引き出してそれぞれを対照させることは慎むべきだが しかし 象徴主義の問題を論じ進む上で 他方 ランボーをさらに取り上げるとするなら たし…

#10

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-06 - caguirofie101006よりのつづき) これに対して――わたしとしては この《青春》の初形をただちに棄てるというわけではないが つまりそこには それが 主観語をよく留めることにおいて この初形のほうをむ…

#9

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-05 - caguirofie101005よりのつづき) 少し詳しい議論に立ち入るなら。 大岡は 一九七六年十二月の《ユリイカ》誌(これは 大岡信を特集している)に かれの代表作の一つとされている《青春》の初形を披露…

#8

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (caguirofie101003よりのつづき) (A)として 短歌(アマテラシスム)か現代詩(反アマテラシスム)か そして (B)として 倫理か没倫理か。 このばあい 《倫理か没倫理か》と問うならば 《決まっているのではな…

#7

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-02 - caguirofie101002よりのつづき) この分岐点は たとえばランボーの次の有名な文章と別のことではないはづだ。 詩人は あらゆる感覚の長い途方もない理論的な乱用によって おのれを見 者( voyeur )に…

#6

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-10-01 - caguirofie101001よりのつづき) たとえば この組み合わせとなった両義性(つまりそれは ここでは 象徴主義か否か 倫理の究極化か否かなどといった二つの組みである)の分岐点から抜け出た大岡じしん…

#5

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-09-30 - caguirofie100930よりのつづき) 精神を絶対に一方に集中する心が 犠牲の心になるのであります。犠牲とは 心が一方に集中するゆゑに 一切のものを擲って 或る物に突入せねば満足出 来ない心の状態であ…

#4

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-09-29 - caguirofie100929よりのつづき) (A)から(B)への過程において 短歌の象徴主義を排するに至る考え方を 大岡は次のように述べている。 * これを なお明らかにしておくことは たとえば桑原武夫の《…

#3

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-09-28 - caguirofie100928よりのつづき) (B)の次元に移るなら かれは 表面上 倫理か没倫理かの両義性の問題を扱い 同時に すでに予表された現代詩のサンボリスムを明確に採るということ。したがって 赤彦…

#2

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917 (2010-09-27 - caguirofie100927よりのつづき) 長々と引用したのは このことが のちのちの議論のためにも重要な事柄を含むとおもわれたからであり ここでは 両義性の問題が その内容として さらに二つの段階に分か…

#1

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917(両義性の岐路に立っての選択 / 多義の系の中からの出発 / 共同主観の共同観念に対する主導性 / 《あいまいさ》の中の〈はっきりしたところ〉と〈あいまいなところ〉と) ――大岡信《日本古典詩人論のための序章――万葉…