caguirofie

哲学いろいろ

#7

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
2010-10-02 - caguirofie101002よりのつづき)

  この分岐点は たとえばランボーの次の有名な文章と別のことではないはづだ。


   詩人は あらゆる感覚の長い途方もない理論的な乱用によって おのれを見
  者( voyeur )に作りあげるのです。・・・
   (A.ランボー:ポール・ドメニ宛ての手紙  粟津則雄訳)


 そしてランボーが 人・作品とも 象徴主義 symbolisme の化身を表わすような存在であったことは言うまでもない。


  * だから あらかじめ述べるなら この分岐点とは その両義にそれぞれ直
   面して 必ずしもいづれか一方の他方との分岐を意味するというのではなく
   そうではなく むしろ《あれもこれも》といって求めるかたちの・しかも取
   捨選択をなすというほどの分かれ道であるようだ。


 《万葉集(その見方)》あるいは《主観語》の問題に移る前に いま一度 はじめにさかのぼって整理しながら進もう。この問題は 《堕落の主要素のひとつだとして 軽薄な主観語の使用などを警戒し 抑圧するあの歌の柄が 総体に萎縮してしま》わないほどの むしろ積極的な《主観語》の問題なのである。

 
  (つづく→2010-10-04 - caguirofie101004)