caguirofie

哲学いろいろ

#5

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
2010-09-30 - caguirofie100930よりのつづき)


  精神を絶対に一方に集中する心が 犠牲の心になるのであります。犠牲とは
  心が一方に集中するゆゑに 一切のものを擲って 或る物に突入せねば満足出
  来ない心の状態であります。
   (島木赤彦:『万葉集の系統』〔講演〕)


  * このように言ったあと 赤彦は 《武士道 / 男伊達 / 盗賊道 / 掏児道》
  といった《日本の国民性》について触れている。


  * なお これを《被抑圧者の論理》として否定しようとする心は その説じ
  たいは 江藤淳に顕著に見られる。だが 江藤は それ以上進まない。江藤は
   そう言ったあと 市民スサノヲ者・S圏のつきあいを超えて そこからアマ
  アガリして抜け出すがごとく 別の象徴主義の道を発見する。すなわち S圏
  =ヤシロの上なるスーパーヤシロ=A圏のその流儀での《つきあい》としての
  象徴である。われわれは この江藤の立ち場をここでかすめて なお大岡の所
  説を追うであろう。


 このようにして大岡は 象徴主義は基本的にまづこれを摂り しかも短歌の象徴主義はこれを排し 言いかえれば アマテラシスムの倫理(倫理化)を排し 《主観語》=スサノヲ語の倫理つまり 《自然・第一次のつきあい》の形式に還帰・到達しようとするべく 赤彦を突き抜けて (B)の段階へと自己をみちびく。


  * なお桑原は この(B)の段階ないしそれに相当する何らかの立ち場を 
  すでに初めに 所与のものとして 前提してしまっていると思われる。たとえ
  ば 近代市民の十全な合理主義を 前提にしているようである。


 そうして大岡は この(B)の段階に至って その全体を見わたし いわばやはり《多義の系》を見出し しかも この多義(つまり 両義性の錯綜連関)は 実は もともとかれ自身の中に・またはその社会に存在していたものである。(ちなみに 多義の系は 江藤のばあい いわば所与のもののようである)。そうだとして(・・・存在していたものだとして) この系を言わば一対づつ組みとなった両義性の多様で重層的な構造として捉え これらの両義性の問題について そのそれぞれの分岐点に立って 《主観語》を・または自己を 選択・取捨してゆくのだ。


  * いま 全体の観点に立った大岡の理論への認識は すでに与えられたもの
  として この論述を進めるなら 次のようである。なぜならそれは 言わば過
  去としてのわれわれ自身の問題なのであり 過去を過去として捉えることも 
  出発にあたっての最重要の知解作業に属すると言える。そこで 次にいくらか
  を。


  (つづく→2010-10-02 - caguirofie101002)