caguirofie

哲学いろいろ

#17

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
2010-10-13 - caguirofie101013よりのつづき)



  かれらの遊びが実際に集団的基盤において生まれ 守られていたことや か
  れらが倫理的徳目から完全に自由な場所で その後の日本の伝統詩がついに強
  力にうけつぐことのできなかった 言葉だけで形造られる世界をきずきあげ得
  ていたことを確認


することは 悪い一義性をかたちづくる。もしくは 幻想的な〔治外法権の〕一義性を――超現実に たしかにシュールレアリスティックに――かたちづくる。そのようなことはあっても この想像(またその力)は 生産力ではない。
 なぜなら 両義性の問題がそこでは抜け落ちてしまっているからである。(大岡は 《曖昧さの美学》を言い 最後まで追究しないうらみがある)。《かれらが倫理的徳目から完全に自由な場所》にいたとは ほんとうには思わないが 万葉詩人たち(その特に後期)は その《遊びが実際に集団的基盤において生まれ 守られていた》かも知れないとは思う。
 そのような万葉後期の成熟ないしむしろ頽廃 その一世界が あったかも知れないとは思う。この社会的な属性は 現代にも ある種 部分的にしろ――日本の社会に限らず――存在すると言ってよい。また逆に そうでない一般に労働の行為につながった生活の部分も 少なくとも現代には存在するであろう。
 この両義性ひとつ取り上げても 仮りに一時期 そのような特殊な万葉〔後期〕詩人たちの時代があったにしても 言わばそのような《遊ぶに適した広いグラウンドを提供する》かに見えるエア・ポケットを見るべきなのではなく その全体つまり多義の系を あきらかに 見るべきなのである。


  (つづく→2010-10-15 - caguirofie101015)