caguirofie

哲学いろいろ

#15

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
2010-10-11 - caguirofie101011よりのつづき)


引用である。途中に注釈をはさむ。


   人麻呂について純粋とか単純とか全心の集中とか言って(* これは 赤彦
  らの立論である)みたところで仕方ない。


    * そしてわれわれも 人麻呂について 純粋とかうんぬんを言うことから
     出発もしないし その議論じたいを採らない。これは 同じ認識である。


  それはかれの作品 とりわけ長歌を読んでみればたちどころに知れるはずのも
  ので(* われわれは このような批判ないし理解の仕方も しないが) む
  しろぼくらはかれの作品に幻想世界の混沌を感じとり そこにぼくら自身を遊
  ばせる方が 少なくとも詩的な意味で衛生的であろう。


    * 衛生的という観点から 万葉集に接するということが そこに両義性を
     見ようとしないということにつながるとは思う。すなわち われわれは 
     つなげるべきであると言うのであって 《幻想世界の混沌を感じと》るな
     ら そうでない現実の生活や主観語をも抽出すべきであり これら両世界
     の古代市民としてのあいまいさを われわれの前に持ち出べきであろう。


  芸術の伝達はたしかに形式的な面で行なわれる部分もあるにせよ 受けついだ
  ものがぼくら自身のものに変わりつくしていない場合には それを受けついだ
  とは言えないのだ。(* 受け継いでしまった全き過去というものあるだろう
  か)。
   そしてぼくら自身のものに変わりつくした遺産とは すでに古典ではない。
  (* それと非連続なほど 新しい時代が受け継ぎその時代のものに変わり尽
  くした過去の遺産とは むしろそれを古典と呼ぶべきであろう)。その古典的
  伝統の授受などということが 一体まじめに論じられるものかどうか。ぼくら
  はむしろ古典の世界(* いや それはむしろ 多義の系からなる現実社会の
  外にあると捉えられた非古典・没古典の世界と言うべきであろう)に遊ぶこと
  を知るべきであろう。


    * だから 現実に このような非古典の世界はない。また あるとしてそ
    の没古典の世界は そこに遊ぶべき対象の世界ではない。
     たとえば ヒトとは別種のサルの世界を想え。そのサルの世界に 或る種
    の古典となって人間に連続する領域があったとしても その余の非古典・没
    古典の世界に遊ぶということは考えられない。
     なるほど しかしひるがえって 人間も いわば自然そのものといった意
    味での非社会的・没古典的な世界を 動物と共有する。その意味で そこに
    遊ぶ。しかしこの遊びは 社会・古典とともにであって 無人地帯の中にそ
    のまま遊ぶというのではない。逆に言えば 現実なる多義の系を そのとき
    忘れてはいても 消失させてしまったわけではない。


  遊ぶためには広い場所ほどいい。万葉集はそのためにはきわめて適したグラウ
  ンドを提供してくれているのである。


    * だから しかし グラウンドは ここ=現代であって その逆ではな
    い。ここから万葉集なる没古典の世界に行って遊ぶというのではなく 万葉
    集〔の中の古典〕を ここへ導くのである。または単にここに確認する。そ
    の余の《万葉集の見方》は 万葉詩人たちと現代人とのあいだに サルと人
    間との隔たりがあって これを前提として歌を見ることに等しい。そういう
    新説であるとしたなら 話はまた別だが。


  〔以上の引用箇所は 要約的な結論(これを 冒頭に引用した)につづく締め
  くくりの部分である〕。


  (つづく→2010-10-13 - caguirofie101013)