あいまいさからのエクソダス(6)
〔または 両義性の岐路に立っての選択 / 多義の系の中からの出発 / 共同主観の共同観念に対する主導性 / 《あいまいさ》の中の〈はっきりしたところ〉と〈あいまいなところ〉と / あいまいさの美学〕
――大岡信『日本古典詩人論のための序章――万葉集の見方について』(1960)に触れて――
いま この小論では 《西欧とその倫理》については直接あつかっていないのであるから この議論は措かねばらない。しかし《万葉詩人たちの言葉の世界》にかんして 大岡の結論は そこでは それを過去の世界としてのみ捉え これに留めようとする観点が濃い。と言わねばならない。
ということは こうである。大岡は 上に触れたような《西欧》の倫理か没倫理かの両義性について ――もちろんそのかれの社会的な土壌としては 日本人としてだが――自己に問いかける観点を持たないというのではなく そうではなく そのような いくつかの両義性から成る多義の系に直面して おそらく――おそらくわたしの見るところでは―― この多義の系に一つの非武装中立地帯( no man's land )とも言うべき穴を空けている。
* ちなみに かれは 実際――ここでは述べないが―― サンボリスムから
シュルレアリスムの詩風へと移行している。だから西欧の詩論を持たないと
は言えず また或る種の仕方で 誰よりもそれに通じている詩人であるとさ
え言われる。
ということは この多義の系に属さない或る領域としての外の一世界 これを形作って これを見つめている。もしくは そこで言葉の表わす真の意味で《遊び》を持っている。そしてここでは 両義性の問題が決して問われ得ないといったような治外法権を想定しているようなのである。このいささか礼を失したような断言が 先の飛躍の意図的な部分にあたると思う。こう言い切ってよいように思う。
引用である。途中に注釈をはさむ。
人麻呂について純粋とか単純とか全心の集中とか言って(* これは 赤彦
らの立論である)みたところで仕方ない。
* そしてわれわれも 人麻呂について 純粋とかうんぬんを言うことから
出発もしないし その議論じたいを採らない。これは 同じ認識である。
それはかれの作品 とりわけ長歌を読んでみればたちどころに知れるはずのも
ので(* われわれは このような批判ないし理解の仕方も しないが) む
しろぼくらはかれの作品に幻想世界の混沌を感じとり そこにぼくら自身を遊
ばせる方が 少なくとも詩的な意味で衛生的であろう。
* 衛生的という観点から 万葉集に接するということが そこに両義性を
見ようとしないということにつながるとは思う。すなわち われわれは
つなげるべきであると言うのであって 《幻想世界の混沌を感じと》るな
ら そうでない現実の生活や主観語をも抽出すべきであり これら両世界
の古代市民としてのあいまいさを われわれの前に持ち出べきであろう。
芸術の伝達はたしかに形式的な面で行なわれる部分もあるにせよ 受けついだ
ものがぼくら自身のものに変わりつくしていない場合には それを受けついだ
とは言えないのだ。(* 受け継いでしまった全き過去というものあるだろう
か)。
そしてぼくら自身のものに変わりつくした遺産とは すでに古典ではない。
(* それと非連続なほど 新しい時代が受け継ぎその時代のものに変わり尽
くした過去の遺産とは むしろそれを古典と呼ぶべきであろう)。その古典的
伝統の授受などということが 一体まじめに論じられるものかどうか。ぼくら
はむしろ古典の世界(* いや それはむしろ 多義の系からなる現実社会の
外にあると捉えられた非古典・没古典の世界と言うべきであろう)に遊ぶこと
を知るべきであろう。
* だから 現実に このような非古典の世界はない。また あるとしてそ
の没古典の世界は そこに遊ぶべき対象の世界ではない。
たとえば ヒトとは別種のサルの世界を想え。そのサルの世界に 或る種
の古典となって人間に連続する領域があったとしても その余の非古典・没
古典の世界に遊ぶということは考えられない。
なるほど しかしひるがえって 人間も いわば自然そのものといった意
味での非社会的・没古典的な世界を 動物と共有する。その意味で そこに
遊ぶ。しかしこの遊びは 社会・古典とともにであって 無人地帯の中にそ
のまま遊ぶというのではない。逆に言えば 現実なる多義の系を そのとき
忘れてはいても 消失させてしまったわけではない。
遊ぶためには広い場所ほどいい。万葉集はそのためにはきわめて適したグラウ
ンドを提供してくれているのである。
* だから しかし グラウンドは ここ=現代であって その逆ではな
い。ここから万葉集なる没古典の世界に行って遊ぶというのではなく 万葉
集〔の中の古典〕を ここへ導くのである。または単にここに確認する。そ
の余の《万葉集の見方》は 万葉詩人たちと現代人とのあいだに サルと人
間との隔たりがあって これを前提として歌を見ることに等しい。そういう
新説であるとしたなら 話はまた別だが。
〔以上の引用箇所は 要約的な結論(これを 冒頭に引用した)につづく締め
くくりの部分である〕。
(つづく)