caguirofie

哲学いろいろ

あいまいさからのエクソダス(4)

〔または 両義性の岐路に立っての選択 / 多義の系の中からの出発 / 共同主観の共同観念に対する主導性 / 《あいまいさ》の中の〈はっきりしたところ〉と〈あいまいなところ〉と / あいまいさの美学〕
 ――大岡信『日本古典詩人論のための序章――万葉集の見方について』(1960)に触れて――





 少し詳しい議論に立ち入るなら。
 大岡は 一九七六年十二月の《ユリイカ》誌(これは 大岡信を特集している)に かれの代表作の一つとされている《青春》の初形を披露している。これは 後の改稿(=決定稿)と見比べることによって はじめの短歌作詩の層雲を突き抜けて 近代・現代詩の気圏へと飛び出たその瞬間の経緯をよく示している。一部を示せば次のようである。両者とも 《青春》という題名であり 変わりない。


   あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢を奪った。驕る心の片隔(原文の
  ママ)に、少女の額の皺のやうな、いたましい翳りがあって、見つめると、侘
  しい思ひをさそふのだった。ゆすれて見える街景に、いくたりか幼い頃の顔も
  あったが、記憶はすでにみすぼらしく、眼つむれば、街かどで、吹きつける風
  に頬はひび割れ眼球は北に飛んだ。
    (《青春》初形)


   あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢をうばった。おごる心の片隅に、
  少女の額の傷のような裂目がある。突堤の下に投げ捨てられたまぐろの首から
  吹いている血煙のように、気遠くそしてなまなましく、悲しみがそこから吹き
  でる。


   ゆすれて見える街景に、いくたりか幼いころの顔が通った。まばたきもせず
  いづれは壁に入ってゆく、かれらはすでに足音を持たぬ。耳ばかり大きく育っ
  て、風の中でそれだけが揺れているのだ。
    (『記憶と現在』所収 1956)


 改稿において 《まぐろの首》あるいは《壁に入ってゆく》あたりの表現に 《具体感》がある。
 この詩が 詩作品として必ずしも成功しているとは思わないが 旧新二編(そのほぼ前半部分である)の対比においては 大岡の引用している赤彦の言葉を用いれば 《抽象的言語が具体感によって特殊化される》次元を目指すものが まづ《象徴主義》であったということを想起すれば 十分であろう。あの(A)から(B)への移行を この改稿によって大岡は行なっていると見られる。


 これに対して――わたしとしては この《青春》の初形をただちに棄てるというわけではないが つまりそこには それが 主観語をよく留めることにおいて この初形のほうをむしろ採りたい気持ちが残るのだが―― こうして広く象徴主義という点では 赤彦とともに立った地点から 赤彦と別れた(B)の段階そのものを示すものは すでに 《彼女の薫る肉体》であると指摘した。
 この作品は 長編の散文詩であり 一部を引用して例示することはむつかしいが 次の文章を抄録することにする。それは 《私》が《彼女》に出会って その《彼女》に 《あなたは気違いだ。狂女だ。魔女だ!》と叫びかけたときの《彼女》の答であった。


   ――かわいそうに。ときどきわたしに本気で恋してしまう若者がいる。わた
    しに抱かれて 空を翔んでいるような幻覚をいだく男がいる。わたしには
    すべてを見通す力が与えられているけれど こういう男をどうしてやる力
    もない。わたしと真実床を共にしたら かれらは本当の狂人になってしま
    うのだから。


  * なお 《狂気》は 時代とともに遷るのであって それを固定的にとらえ
  る必要のないことは 言うまでもない。


 この言葉・この言葉の世界は 詩人みづからが その世界に帰同(こういう言葉を用いよう)していながら しかも同時に 主客を互いに疎外させている(つまり ふつうに 表現し外化している)ことを 物語っている。
 (つづく)