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哲学いろいろ

あいまいさからのエクソダス(5)

〔または 両義性の岐路に立っての選択 / 多義の系の中からの出発 / 共同主観の共同観念に対する主導性 / 《あいまいさ》の中の〈はっきりしたところ〉と〈あいまいなところ〉と / あいまいさの美学〕
 ――大岡信『日本古典詩人論のための序章――万葉集の見方について』(1960)に触れて――





 ここで 単に或る一部分を引き出してそれぞれを対照させることは慎むべきだが しかし 象徴主義の問題を論じ進む上で 他方 ランボーをさらに取り上げるとするなら たしかにこれもまた ランボーの《酔いどれ船 Le Bateau Ivre 》の一節を想い出させるところがある。


   そのときからだ
   おれが 詩の中に身を浸したのは
   綺羅星が降り 銀河を想わせ
   緑の空をむさぼり喰う
      吃水線は蒼白く 時折り
      物想いが誘われて 溺れ死ぬ
   《海の詩》の中に
   ・・・


 そこで もはや 大岡の作品を論じるというよりも いかなる象徴主義を採るかという中心の論点に移ろう。
 すなわち 片やこの《酔いどれ船》は こう述べたのち


   ああ わが竜骨よ 砕け散れ
   おれは
   海へ往くのだ


と叫んでいるが 片や《彼女の薫る肉体》に出会っても 《私》は 《彼女》のあの答のすぐあと


   ――なんという大気の鋭角だ! なんという天啓の旅だ! 
    激烈な抱擁だ!


と《夢中になって叫んでいた》のみであり 《そのとき 私のまわりには大勢の人間が集まって にやにやと笑いながら私を見つめていた》と すすんで《私》を取り巻く周囲の情況を伝えることを忘れていない。また そう伝えるのみである。さらにまた その《 Post Scriptum として》 《女は広場に催眠術をかけた》とうたいつがれる恰好である。
 これは 大きく 《西欧》と《日本》とのやはり両義性として現われてくる問題である。ここでは これ以上 すすんで述べない。


  * 述べないが ただ一言つけ加えておきたいと思うことがあるとすれば それ
    は こうである。《両義性》であるからには これは 単に《外来の文化》と
   しての《かれ》と 《自生の伝統文化》としての《われ》との対立というので
   はなく むしろ大岡の中に・そして広くわれわれの中に 曖昧模糊として か
   れ《西欧》も もともと存在していたのだと言うべきである。そう見るべきで
   ある。
    特に 戦後に人となった者なら 片方の脚は《ここ》に もう片方は 《そ
   こ》に 気がついたときには確かに降ろしていたと言わねばならないというこ
   とではないか。大岡の作品は むしろ行き着く先として このことを 縁取る
   かのように 語るところがあるようだ。


 すなわち 結論はこうである。両義性(B)の《倫理か没倫理か》の一方の《倫理》の中に 《西欧のか日本のか》の両義性(B')が当然のごとく生まれているであろうから 簡単に言ってわれわれは 大岡の両義性(その到達点)を超えなければならない。
 この結論の提示は 飛躍があるが しかしその飛躍は 心地よい。むしろここで 意図的である。それは ここで《万葉集の見方》にかんする冒頭に引用した要約的な大岡の結論を おそらく超えねばならないと思うからである。