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哲学いろいろ

あいまいさからのエクソダス(3)

〔または 両義性の岐路に立っての選択 / 多義の系の中からの出発 / 共同主観の共同観念に対する主導性 / 《あいまいさ》の中の〈はっきりしたところ〉と〈あいまいなところ〉と / あいまいさの美学〕
 ――大岡信『日本古典詩人論のための序章――万葉集の見方について』(1960)に触れて――


 たとえば この組み合わせとなった両義性(つまりそれは ここでは 象徴主義か否か 倫理の究極化か否かなどといった二つの組みである)の分岐点から抜け出た大岡じしんをみごとに表わした作品としては 《彼女の薫る肉体》を挙げれば 必要にして十分と思われる。
 この作品では 詩神とも言うべき究極的な存在たる《彼女》にみづから錯乱したかのごとく 肉迫してゆき しかもその《彼女》の肉声と 混然一体となることなく 《彼女》と《私》とを いわば地球の上に立って 或る種 客観的に位置づけることに成功しているという作品である。《彼女の肉声と 混然一体となることなく》というのは 自己の中に見え隠れするそのような一つの客観的な存在(あるいは 非在)の側から 倫理的な裁判をくだすという誘惑に ついに 打ち勝つという意味である。
 (人は この作品を読むなら 何か鬼気迫るといった感を抱くことを禁じえない)。


 【ここで ひとくだりが欠落しています。探しています。】
 【作品《彼女の薫る肉体》については 著作集版で十一ページにおよぶ長編詩です。】


 この分岐点は たとえばランボーの次の有名な文章と別のことではないはずだ。


    詩人は あらゆる感覚の長い途方もない理論的な乱用によって おのれを見
   者( voyeur )に作りあげるのです。・・・
    (A.ランボー:ポール・ドメニ宛ての手紙  粟津則雄訳)


 そしてランボーが 人・作品とも 象徴主義 symbolisme の化身を表わすような存在であったことは言うまでもない。


   * だから あらかじめ述べるなら この分岐点とは その両義にそれぞれ直
    面して 必ずしもいづれか一方の他方との分岐を意味するというのではなく
    そうではなく むしろ《あれもこれも》といって求めるかたちの・しかも取
    捨選択をなすというほどの分かれ道であるようだ。


 《万葉集(その見方)》あるいは《主観語》の問題に移る前に いま一度 はじめにさかのぼって整理しながら進もう。この問題は 《堕落の主要素のひとつだとして 軽薄な主観語の使用などを警戒し 抑圧するあの歌の柄が 総体に萎縮してしま》わないほどの むしろ積極的な《主観語》の問題なのである。
 

 (A)として 短歌(アマテラシスム)か現代詩(反アマテラシスム)か そして (B)として 倫理か没倫理か。
 このばあい 《倫理か没倫理か》と問うならば 《決まっているのではないか。それは 〈倫理〉である》というほどの二者択一の問題でないことは いま論じつつある。言いかえれば 《倫理(突き合い)》に《美(美学)》があるごとく 《没倫理(くっ付き合い)》にも或る種の《美学》が形成されることのあるように (A)の短歌にもまた現代詩にも 《象徴》主義が生まれた。
 つまり アマテラスなる光もしくは《もっぱらの公民》には 言うまでもなく アマテラシテなる象徴が生まれたのだし 《反アマテラス》にも 或る種のアマテラシテは 生み出される。偶像まがいであろうが もともと アマテラシテ象徴は 仮りの像である。反アマテラスのほうのアマテラシテは それが 偶像としてのスサノヲのミコトであるかも知れない。


 この倫理と没倫理との双方に そういった《美》が たとえば情感の共同性であるとか あるいは もののあはれであるとか そういう意味としても 《象徴》が生まれ これら二組四種の義は それぞれに《象徴 symbole / アマテラシテamatérasité 》の概念を秘めたものと考える方向へ 前提として 傾くことが出来る。


 つまり これをまとめて いかなる象徴主義に立つかである。もしくはより正確にわれわれの言葉で アマテラシスム(つまり その二重言語性=ダブルスタンダード)はこれを基本的に排すべく 原点としては 主観語ないしスサノヲ語(つまりその言語二重性)に立ち ここからその二重性ないし両義性を どんな構造において象徴構成するかである。まづこの論点がいま明らかになってわれわれの前にあるということになるだろう。


  * 主観語ないしスサノヲ語の言語二重性とは 必ずしもホンネとタテマヘであるよりは 
   それよりも ホントウとウソとの両義性である。つまり 倫理が首をつっこんで来て
   いる。
(つづく)