caguirofie

哲学いろいろ

#8

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
caguirofie101003よりのつづき)

 (A)として 短歌(アマテラシスム)か現代詩(反アマテラシスム)か そして (B)として 倫理か没倫理か。
 このばあい 《倫理か没倫理か》と問うならば 《決まっているのではないか。それは 〈倫理〉である》というほどの二者択一の問題でないことは いま論じつつある。言いかえれば 《倫理(突き合い)》に《美(美学)》があるごとく 《没倫理(くっ付き合い)》にも或る種の《美学》が形成されることのあるように (A)の短歌にもまた現代詩にも 《象徴》主義が生まれた。
 つまり アマテラスなる光もしくは《もっぱらの公民》には 言うまでもなく アマテラシテなる象徴が生まれたのだし 《反アマテラス》にも 或る種のアマテラシテは 生み出される。偶像まがいであろうが もともと アマテラシテ象徴は 仮りの像である。反アマテラスのほうのアマテラシテは それが 偶像としてのスサノヲのミコトであるかも知れない。


 この倫理と没倫理との双方に そういった《美》が たとえば情感の共同性であるとか あるいは もののあはれであるとか そういう意味としても 《象徴》が生まれ これら二組四種の義は それぞれに《象徴 symbole / アマテラシテamatérasité 》の概念を秘めたものと考える方向へ 前提として 傾くことが出来る。


 つまり これをまとめて いかなる象徴主義に立つかである。もしくはより正確にわれわれの言葉で アマテラシスム(つまり その二重言語性=ダブルスタンダード)はこれを基本的に排すべく 原点としては 主観語ないしスサノヲ語(つまりその言語二重性)に立ち ここからその二重性ないし両義性を どんな構造において象徴構成するかである。まづこの論点がいま明らかになってわれわれの前にあるということになるだろう。

 
  (つづく→2010-10-05 - caguirofie101005)