caguirofie

哲学いろいろ

#3

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
2010-09-28 - caguirofie100928よりのつづき)

 (B)の次元に移るなら かれは 表面上 倫理か没倫理かの両義性の問題を扱い 同時に すでに予表された現代詩のサンボリスムを明確に採るということ。したがって 赤彦ないし短歌の象徴主義からの訣別を 宣言した恰好である。
 いま一度言いかえるなら 短歌の象徴主義は そこで――赤彦の説くように――倫理を問うかたちではありながら その倫理は 社会のより大きな何ものか(つまり 多義の系)に埋没する要素が致命的に大きいとすでに 説き及んでいるのである。そのような短歌の象徴主義は サンボリスムという用語よりも アマテラシスム amatérasisme といった表現であらわすとよい。

 このような二つの次元の問題を 全体としてさらに要約するならば 大岡は 一般に《あいまいさ》を問題にするごとく 倫理の立ち場をもって詩論を展開しようとしている。そしてこの倫理が 《つきあい》の問題であるからには 市民生活( la société susanowoïste ないし intersusanowoïsme )とそこに歴史必然的に現われるであろう象徴( amatétasité アマテラシテ)との両義であり そのあいまいな関係である。要は スサノヲ人間語とアマテラス客観語との按配であり スサノヲ市民とアマテラス公民との関係である。このような綜合的にして 両者の存在するそのつきあいの関係を問題としていると言うことができる。
 したがって これがすでに 人が 詩や歌を作るか否かとにかかわらず 直面している現代市民にとっての問題である。あるいは 非問題であるという人がいるかも知れない。そして そのような議論の互いに入り組む情況であることは 明白であろう。
  
 (つづく→2010-09-30 - caguirofie100930)