caguirofie

哲学いろいろ

#18

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
2010-10-14 - caguirofie101014よりのつづき)


 われわれは 次のように結論してよい。


 桑原武夫は 西欧近代市民の十全なる合理主義(それは もちろん 西欧市民のスサノヲイスムに発し キャピタリスムを興し それに伴なって展開したものである)という実はアマテラシスム(つまり 象徴主義である。理性・合理を象徴とするのである)に拠って ひとつの意見を語った。江藤淳は 多義の系を あくまで日本の社会としての土壌において捉え これを見失うことなく その中でのアマテラシスムに拠った。旧い象徴主義を衣替えさせてゆくべき現実動態的な新しいアマテラシスムを掲げる。


 大岡信は このどちらをも排した。


 しかしその象徴主義は 言わばこの多義の系なる全体を超えたところにそのひとつの象徴を求め シュールレアリスムなるアマテラシスムをかたちづくり これに拠るかのごとくである。


 シュールレアリスムは 西欧市民のあいだで――たとい絵画の世界を除いても―― そう長くは続かなかったと言うべきであろう。
 しかし 日本の社会に伝統と言うほど根強い象徴主義=アマテラシスムの衣を纏った日本的なシュールレアリスムは なお現代の問題であると思われ 一方で 桑原理論は それじたいとしては必ずしも発展させられることはなかったが 他方で 江藤の現実主義は 大岡らのシュールレアリスト・アマテラシスムの衣をまとってたようにして みづからを保守していると言える。われわれの問題は このような構図にでも少しはかいま見られる情況にその一淵源があると言う。


 ひとまづ 《両義性の分岐点に立っての取捨選択》の議論を閉じよう。
(おわり)