caguirofie

哲学いろいろ

#13

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
2010-10-09 - caguirofie101009よりのつづき)


 これは 大きく《西欧》と《日本》とのやはり両義性として現われてくる問題である。ここでは これ以上 すすんで述べない。


 * 述べないが ただ一言つけ加えておきたいと思うことがあるとすれば それ
  は こうである。《両義性》であるからには これは 単に《外来の文化》と
  しての《かれ》と 《自生の伝統文化》としての《われ》との対立というので
  はなく むしろ大岡の中に・そして広くわれわれの中に 曖昧模糊として か
  れ《西欧》も もともと存在していたのだと言うべきである。そう見るべきで
  ある。
   特に 戦後に人となった者なら 片方の脚は《ここ》に もう片方は 《そ
  こ》に 気がついたときには確かに降ろしていたと言わねばならないというこ
  とではないか。大岡の作品は むしろ行き着く先として このことを 縁取る
  かのように 語るところがあるようだ。


 すなわち 結論はこうである。両義性(B)の《倫理か没倫理か》の一方の《倫理》の中に 《西欧のか日本のか》の両義性(B')が当然のごとく生まれているであろうから 簡単に言ってわれわれは 大岡の両義性(その到達点)を超えなければならない。
 この結論の提示は 飛躍があるが しかしその飛躍は 心地よい。むしろここで 意図的である。それは ここで《万葉集の見方》にかんする冒頭に引用した要約的な大岡の結論を おそらく超えねばならないと思うからである。


  (つづく→2010-10-11 - caguirofie101011)