caguirofie

哲学いろいろ

#2

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
2010-09-27 - caguirofie100927よりのつづき)


 長々と引用したのは このことが のちのちの議論のためにも重要な事柄を含むとおもわれたからであり ここでは 両義性の問題が その内容として さらに二つの段階に分かれることも指摘することができる。
 すなわち 初めの(A)の《接近》の次元では 短歌(ないし和歌)と現代詩の両義性の問題に そして次に(B)の《乖離》の次元では 要するに 詩の表現を対象とし媒介ともして 倫理か非倫理かの両義性の問題に それぞれ直面していると考えられるからである。あるいはまた 全体として 《多義の系》――つまり 殊に日本の社会的な現実そのもののことであるが――のあいまいさ この問題にも突き当たっているというものであろう。言うまでもなくこれ 現代市民の 殊に日本人としても その存在を確かにつかまんがための問題である。


 ――(A)の両義性ないし あいまいさの問題――


 つまりここでは 現代の世界において 詩人たる大岡信じしんは 象徴主義を採るか否かに直面している。赤彦から引用された言葉を用いれば 《一点の単純所に澄み入》って 《抽象的言語が 具体感によって特殊化される》ような方法 これを採るかどうかである。また 《抽象的言語》とは われわれの言葉で 言うまでもなく 《ひかり ないし 普遍アマテラス語》であり 《具体感》とは 同じく《スサノヲ人間語》あるいは要するに《必ずしも ひかりではないもの つまり 前アマテラス客観語とも言えるような言葉遣い》のことである。
 そしてここでは 《象徴》とは 言うまでもなく スサノヲ者市民生活の象徴であり 仮象的なひかりとしてのアマテラシテ Amatérasité のことである。


 これらは 大岡その人に即してみれば 彼が歌人であったその父の影響下にみづからも歌を作ることによってまづ 詩人の道を歩み始めたことと 無関係ではないであろう。

 
 この第一段階では 明らかなように また かれ自身 短歌を作る道を捨てて近代詩を摂ったその後の事実が示すように 赤彦の側にあって――つまりなおいまだ 歌人・赤彦の側にあって――しかも 現代詩の いま言ってしまえば象徴主義を摂ろうということである。そのことが 言わば予表されており またそれは 予表されるというに過ぎない段階というものであろう。


 (つづく→2010-09-29 - caguirofie100929)