caguirofie

哲学いろいろ

#28

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

Inter-Susanowoïsme――性・対関係・相聞 2――(その三)

実践主観について パウロは次のように述べて これを総括している。

わたしたちは またもや 自己推薦をし始めているのだろうか。それとも ある人びとのように あなたがた(――ヤシロと読め――)にあてた あるいは あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。わたしたちの推薦状は あなたがたなのである。
それは わたしたちの心にしるされていて すべての人に知られ かつ読まれている。そして あなたがたは自分自身が わたしたちから送られたキリストの手紙であって 墨によらず生けるカミの霊によって書かれ 石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを はっきりとあらわしている。
こうした確信を わたしたちはキリストによりカミに対していだいている。もちろん 自分自身で事を定める力が自分にある と言うのではない。わたしたちのこうした力は カミからきている。カミは わたしたちに力を与えて 新しい契約(――万葉と読め――)に仕える者とされたのである。それは 文字に仕える者ではなく 霊(――風である――)に仕える者である。文字は人を殺し 霊は人を生かす。
もし石に彫りつけられた文字による死の務めが栄光のうちに行なわれ そのためイスラエルの子らは モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに その顔を見つめることができなかったとすれば まして霊の務めは はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣言する務め(――それは 律法による――)が栄光あるものだとすれば 義を宣言する務め(――それは うたによる――)は はるかに栄光に満ちたものである。
そして すでに栄光を受けたものも この場合 はるかにまさった栄光のまえに その栄光を失ったのである。もし消え去るべきものが栄光をもって現われたのなら まして永存すべきものは もっと栄光のあるべきものである。
こうした望みをいだいているので わたしたちは思いきって大胆に語り そしてモーセが 消えさっていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして 顔に蔽いをかけたようなことはしない。実際 かれらの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで かれらが古い契約を朗読するばあい その同じ蔽いが取り去られないままで残っている。それは キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお モーセの書(――古事記および万葉集――)が朗読されるたびに 蔽いがかれらの心にかかっている。カミは霊である。そして カミの霊のあるところには 自由がある。わたしたちはみな 顔蔽いなしに カミの栄光を鏡にうつすように見つつ 栄光から栄光へと カミと同じ姿に変えられていく。これは 霊なるカミの働きによるのである。
コリント人への第二の手紙 3:1−18)

モーセの書 律法の栄光が 古代市民的な共同自治への人間の知恵である。それは アマテラス圏において 研究・講義される古事記万葉集である。いまでは これは 人麻呂の顔蔽いとなって アマテラス語の長歌(それは 石の板に書かれた消え去るべきうた)となっている。それは 律令体系へと展開され 罪を宣告する古代市民的な栄光(なぜなら 人間の知恵による共同主観に発するのだから)であった。しかも このカシハラ・デモクラシの一展開としてのフジハラ・アマテラス政権による律令体制の栄光の前には 義を宣言する古代市民らの万葉の歌があった。カシハラ・デモクラシが ヤシロから興り そこにスーパーヤシロの概念を構成し もしこのスーパーヤシロが 主導性を先取りするA圏のヤシロに対する主導性へと導かれていく余地があったとするなら この余地に対して 新たな栄光を宣言するうたが 禁じられるべきという法はない。
この禁忌は ただA圏の人びとの原形的なおびえが習性となって これを共同自治するかのごとく共有してきたS圏の人びとのある種の習性が しからしむるわざのほかではない。この長歌の習性は 歴史的に突き破るべき共同観念である。これには カミから与えられるちからを必要とするであろうが カミの言葉は必要としない。うたの構造に結び付けられたちからとして 人間の言葉として発するだけでよい。律令の栄光が 同じく人間の有であるにほかならなかったからである。
この栄光から新しい栄光へとわれわれが変えられるべき推薦状は すでに 万葉の集としての編纂以前に われわれの心に書きしるされていたことにほかならないからである。それでは われわれは何と言おうか。われわれの実践主観は われわれの自己のもとに すでにそこへと到達されている これ以外にないではないか。
すでに この書を閉じてわれわれは 目を外に向けよう。受け取ったなら すでに受け取らなかったと誇るべきではないから。



しかしなお われわれがこれを綴るのは アマテラス者がなおこれを拒絶するかのごとく ここからみづから 自己疎外をなし――それはつねに 文字として法律として表現(=疎外)することによって為し―― このアマテラス語の表現(疎外)形式を たしかにわれわれも われわれ自身のうちに見出すからにほかならない。だから つねに 新しい万葉はこの過程でしかない。理想社会を描くのではなく 自己の一編のうたをうたい出してゆくことでなければならない。そのあまねわり(カトリシスム)を保証するものは 律令の時代すら あまねわりの栄光を遂げたこと自体である。
われわれは 律令長歌体制を突き破って それ以前の・文字以前の万葉歌の共同主観へと後退しつつ行くがごとく 新しいインタスサノヲイスムへと前進すると言われる。自負を自負しないことによって 無理な自負を自己に強いないがためである。
それでは われわれは何と言おうか。
相聞とは何か。対関係とは何なのか。われわれは つねに ここに立ち戻るであろうと言われる。このインタスサノヲイスムが そのまま インタキャピタリスムとデモクラシそのものであると言われうるからである。
(つづく→2006-09-10 - caguirofie060910)