caguirofie

哲学いろいろ

#25

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

Inter-Susanowoïsme――性・対関係・相聞 2――(その一)

ここでは 同じくインタスサノヲイスムと題しているが 前章の省察を発展させることが 目的ではない。
われわれは すでに その実践方式を示した。そうではなくて もはやここでは これらの学的行為を その始原に戻って回想するかのように ただ認識・知解の経路を明らかにしておこうというのみである。またその意味での方法の滞留ということだが もっとも 学の行為がその始めに戻ろうとすることは 学の行為が退行するというわけではない。それは 実践行為を保留するのではないということだけではなく――ただし カミ(ヤシロの現実と歴史)のもとで それを 留保されている側面はあろう―― 新たな局面への学的な開花を それじしん たどり また かれの主観ないしかのじょの主観におけるそれを促し 対話するということを 必然とする。この意味で それは インタスサノヲイスムへのあらためての省察であり それは 性・対関係・相聞のカテゴリにおいて語るとしてよいであろう。こういった前提である。
ただ言えることは これ以後は ここまでの考えとしての動きを受け継ぎつつ 徐々に もはや柿本人麻呂――古代市民としての柿本人麻呂――の方法を われわれが突き破るという展開へと発展させるべき段階に入る。また そうでなくては ならないであろう。次のように考えるからである。

しかし 精神(――うたの構造の主体――)の場合は それと異なるのだ。つまり 精神はあたかもすでに存在していた自己自身に 存在していなかった同じ自己が他処(よそ)から到来するように 自己自身に外来者のように入って来るのではない。それとも それは他処から来るのではなく すでに存在していた精神の中に存在していなかった信仰(――うたの構造の新たな局面と読め――)が現われるように すでに存在していた精神の中に存在していなかった精神が生まれるのであろうか。
それとも 精神はあたかも自己自身を認識する前にはそこに存在しなかったように 自己を認識した後 回想しつつ自己自身をいわば自己の記憶のなかに置かれたものとして見るのであろうか。
しかし たしかに精神は さきに私たちが示したように 存在し始めたときから 自己を回想し(――組織し――) 自己を知解し(――生産し――) 自己を愛する(――経営・自治する――)ことを決して止めなかったのである。それゆえ 精神が思惟によって自己自身の方に転向されるとき 言葉であるものをすでに知解し得る三一性(――キャピタリスム=デモクラシ=インタスサノヲイスム――)が生起するのである。つまり 言葉は思惟によって形成され 意志(――愛と読め――)がこの言葉を思惟と結合する。だから ここでこそ私たちが問い求めている似すがたが 確認されなければならない。
アウグスティヌス三位一体論 14:10)

だから インタスサノヲイスムは すでにわれわれがたどってきたその軌跡である。だから インタスサノヲイスムは すでにわれわれの自己(それは 原形的なS−A連関主体である――)に到来していたところの――われわれが生を受け存在し始めたときから到来していたと言おう――われわれの問い求めるすがたであり それは カミの似すがたである。
似すがたは ヤシロの次元に拡げて 当然のごとく 記憶と知解と愛の主体であることの相似形としての デモクラシ(組織)とキャピタリスム(生産)とインタスサノヲイスム(経営・自治)との三位一体でなければならないであろう。
精神は ある種の秩序とその中の役割分担を欲している。それは 主観であるがゆえに その主観の内外のうたの構造における秩序と位置である。それは かれが記憶し回想するとき そこに・そしてその環界に ある種の動態的な組織を欲している。そしてこれが かれが愛し(もしくは 憎み) あるいは意志することにおいて 相聞の構造としての組織過程にほかならない。
これを知解し思惟し言葉(うた)を発し また言葉と思惟とを 知解する意志が結合するとき それはかれが 環界におけるモノ(質料)およびコト(形相)の加工という生産行為をとおして 自己を愛することにほかならない。おのおのの仕事が待っている。これら 組織=生産=経営の三行為の一体が 精神におけるデモクラシの視観(知覚としての概念)とキャピタリスムの視観からの視観(概念行為)とインタスサノヲイスムの意志(愛として結合するちから)との三一性をとおして われわれが問い求めるヤシロの似すがたなのである。
かれのうたの構造は ここに到達されるべくして到達されており こう思惟されるべきようにして思惟されるべく すでに愛されていたはじめ(原理)が そこにある。
この原理のあまねわり(カトリシスム=多様なる万葉・その開花)が われわれの実践主観であるにほかならない。
それゆえ かれは ヤシロの中における相聞関係 いやじつはスーパーヤシロとの連関の中における共同相聞のうた これを 自己のもとに引きこみ それに愛着しつつ甘え 自己のもとにおいて思惟する形態から 自己を分離せよ。しかして かれは 自己のもとのオリジナルな相聞を 愛すべくして愛し 表出させよ。ヤシロの三つのカテゴリの一体 自己の三つのモメントの一体に――その似すがたの奥なる存在(――それは 自由 である――)に固着しつつ―― すでに到来していたうたの構造を見出せ。スーパーヤシロとの連関から A者によってうたい出され われわれの耳に届くその種のうたの旋律を見つめてはならない。かれは 自己をしておのれの精神のヤシロにおける位置を 確認せしめよ。ここから うたい出さしめよ。それは かれが はじめにおいて求めていた原理であり この原理に例外はないからである。


それでは われわれは何と言おうか。
《海よ おまえはなぜ逃げるのか 山よ おまえはなぜ踊るのか》とすでに《かのじょの踊り》を踊り始め しかもすでに踊り終わったかのように ヤシロの勝利に酔いしれるのか。《これから どうなるのか まだわからない》と言って あの蛇のひと噛み(非アマテラシテ)を そのへびの這うごとく おのれの内に引きずって なお巡礼の旅路を歩むのか。
われわれは 何と言うであろうか。人麻呂とともに あの《靡けこの山》と叫ぶか。あるいは あの《東の野に陽炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ》と言って 旧きよき時代に郷愁を馳せるのか。その神学に憑依して アマテラス圏に対する審きに向かうというのか。
われわれは 何と言うか。この信仰の復活によって 似すがたの似すがたなる長歌の時代を再現しようというのか。われわれは 何と言うのか。カトリックの時代へと逆戻りするというのか。それとも なおスーパーヤシロから繰り出される経験的なうたのメロディの中に 奴隷なる自由人として 生きるというのか。


それでは 何と言おうか。《朝(あした)に言葉を聞き 夕べに死す》というのであろうか。言葉が カミの言葉か。カミの言葉は 文字に刻まれ 偶像となってよいものか。人間の言葉に到達することが われわの問い求めるものではなかったか。ルネサンスとは 何の謂いであったか。
だから 何と言うのであろうか。《雄弁は銀 沈黙は金》とでも言うのであろうか。断じてそうではないであろう。言葉は 人間の有(もの)である。人間は カミの有である。カミは ヤシロの有である(または ためにある)。ヤシロは 人間の有である。スーパーヤシロは なお人間の有である。スーパーヤシロは アマテラス語から成り立つ。アマテラス語は 不従順の子らの有である。不従順の子らは スサノヲイストの言語二重性の有である。スサノヲイストの言語二重性は 人間の有である。《妹は心に乗りにけるかも》という事実認識は 終わったのである。《かのじょの踊り終わるまで》という歴史認識は 終わったのである。それでは 何と言うであろうか。
人は 幸福のうちに死ぬであろうか。
人は 胸に手をあてて考えるであろうか。月がうたい 星が踊り かのじょがその旋律を管理するあの時代をなつかしむであろうか。この母斑をひきずっていきたいと言うのであろうか。アマテラス者の二重言語性のうそを なつかしむであろうか。おれは スサノヲイストには なりたくないと言うであろうか。

《あなたは レヴィアタンの頭をくだき / これを野の獣に与えてえじきとされた》(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)74:14)。が しかし 《国びとらはあなたのもとに 王の敵の心で――また あなたの敵の心で―― 倒れる》(45:5)と言うのであろうか。何と 言うであろうか。言語二重性が ついに滅びると言うであろうか。それは 経験的なものからやってくる その経験的なものの仮象であるアマテラス語の二重言語性の死滅ではないであろうか。それとも アマテラス語の律法統治形態は あなたのいのちなのであろうか。断じて そうではないであろう。
死を 経験的なものの内の大いなる死にまかせるという死の思想もしくは生の信仰 しかもこれを アマテラス語の律法によってその長歌の蔽いの中に 説かれる共同相聞歌が あなたのうたなのであろうか。死が 生が 経験的なものであることにまちがいはない。しかも これは 経験的なヤシロの過程そのものにおいて 経験するものである。
月(ビュロクラット;ドクトル)や星(スター)やその歌や踊りを見るように アマテラス長歌行為に その身を委ねねばならないであろうか。それらこそ ヤシロが その専従主体へと委ねたものではなかったか。かれらが スーパーヤシロを 独自のA圏へと引き連れてゆくがごとく――そのときS圏はなすすべなく手をこまねいて見ているだけであって―― おのれの習性なる論理をほしいままにしたのではなかったか。
都市なる地域社会も企業なる会社も ヤシロではなかったのか。アマアガリとは ここまでではなかったか。A圏なるスーパーヤシロは うたの構造の圏外ではなかったか。相いも変わらぬ長歌大系たる学問アマテラス行為を引きずり みづからが ヤシロに専従するわざをき(俳優・また カミナギ(巫覡))であることを忘れて スーパーヤシロから歌劇を繰り出し 社会と会社を劇場社会としたのは 誰のせいであったか。おそらく こんなはずであったのであり 要は 最初のアマテラス者への委任を解くことであろう。それだけだ。
(つづき→2006-09-08 - caguirofie060908)