#27
もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813
Inter-Susanowoïsme――性・対関係・相聞 2――(その二)
けれども ヤシロの主宰者であったイザナキは その《三はしらの貴き子》に対して それぞれそのヤシロの役割分担を命じた。アマテラスには スーパーヤシロを ツクヨミには アマテラス行為の助け手であることを スサノヲには ヤシロの海原を それぞれ委ねた。
そこで かれらは イザナキのご委任になったとおりに 知らしめす中に スサノヲは そのクニをおさめないで あごひげが胸先に及ぶにいたるまで泣きわめいていた。その泣くさまは 青山が枯木の山となり 河海の水がすっかりなくなるまでになった。このために 悪しきカミの声が 不気味な音を立てて満ちみち よろづの妖(わざわい)が ことごと起こった。そこで イザナキは スサノヲに訊ねた。
――どういうわけで その委任されたクニをおさめないで泣きわめくのか。
スサノヲが答えて言うには
――わたしは 亡きははのクニ 根のカタスクニに参りたいばかりに泣いているのです。
(古事記 (岩波文庫)上つ巻 三貴子の分治と スサノヲの異端性の糸)
このように述べられているとき それでは われわれは 何と言うであろうか。
初期国家の成立後の視点に立って 古事記は ヤシロとスーパーヤシロとが 転倒していると言うであろうか。断じてそうではない。そうではなくて ヤシロとスーパーヤシロとの連関の中で その互いの相聞が すり替わっているのである。《泣きいさちり》踊り出すのは アマテラス圏なのである。ツクヨミが もはや見放すかのごとくアマテラス統治行為がその最高の段階に達したとき 《ははの国に参りたい》というのは アマテラス者かれら自身なのである。
ヤシロのスサノヲ者は すでに幸福に対して免疫性が与えられている。劇場社会に動じることはない。《八つか鬚 こころ前に到るまで啼きいさち》るのは アマテラス予備軍である。《青山は枯れ山なす泣き枯らし 河海はことごと泣き乾》すのは スーパーヤシロ保守へのA圏種族の習性のしからしむるわざなのである。その長歌の 潮の引くがごとく 衰滅するのを見よ。
空中の権能の君主のもとに集まるA者が 死の制作者の長歌をもって 地を這うがごとく 満ちみち 悪鬼(そのかしらは 悪魔である)が 踊り狂うのは ヤシロなるスサノヲイスト誕生への養育掛かりにほかならなかった。また このような幻想共同性の言葉をもってこそ 養育者の長歌の蔽いを突き破るべきだからである。われわれは スサノヲイストの言語の一重性へと退化してはならない。それは なるほど カミの言葉であるかも知れない。しかし カミの言葉には アマテラス者も同じく触れているのである。長歌の蔽いの衣替えへと導かれて行くのであってはならない。
だから スーパーヤシロなるA圏種族の習性を その長歌を あまりに愛するものであってはならない。この蔽いは スサノヲイストには すでに取り除かれており つねに取り除かれている。わづかに 野党なるA圏種族が スーパーヤシロなる擬似A−S連関を作って この長歌に いつわりの風を送るがごとく 蔽いのモデル・チェンジを促すのみに過ぎない。A圏種族への哀悼を贈るのは アマテラス語の慈悲にしかすぎず 自己のいつわりの犠牲であるにほかならない。
この習性へと引きずられていったのではならない。だから 長歌を見つめるなかれ。アマテラス語としての慈悲なる蔽いに安住するなかれ。わがスサノヲイストの風を かれらの胸元へ贈るべし。
けれども かれらは これを拒否する。《八つか鬚 心先に到るまで泣きいさちる》であろう。《国人は あなたの前に 王の敵の心で たふれる》であろう。たふれるに任せよ。かれらは 死の制作者(その経験的なるもの)にみちびかれ 《山は死にますか 海は死にますか》と 声を挙げてうたい みづからの死に無縁であると思う種族なのであるから。(自己が死んだら 海も山も死ぬのである。かれらは そうは思わない。)かれらは 巡礼の旅路を避けて生きる種族であると思われる。
われわれは かれらは《自分自身の力によって カミを観想し カミに密接に結合されるほど(ミソギとハライをとおして)清められ得ると思っている人びと》であると考える。このカミの言葉を司祭する人びととその不死(英霊)の信仰は 《あの隠れて待ち伏せする霊を 別の道を通って避けるか あるいはアマレークが意味表示する後退する民をとおして明らかに強暴となり 私たちが約束の地(新しい共同主観)に進むのを拒否して禁じるあの霊を モーセの伸ばされた手(旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) 17:8−16)によって予表されるカミの十字架をとおして克服すべきものに他ならない》(アウグスティヌス三位一体論4:15)。
《かれらは 自分自身の力によって浄められると高慢にも主張するが その理由はかれらの或る人は精神の眼な差しを被造物全体の涯にまで到達させ 変わらざる真理の光にたとい小部分であっても触れ得たからである》(承前)。だから かれらは 英霊をたたえ 人麻呂の霊をたたえる。
だからわれわれは かれらは 国人たるわれわれのたふれるに任せるごとく かれらの倒れるにまかせ 巡礼の旅路ののちにたどり着いたわれわれの死が 経験的なものをのり超えたあとの死であるように かれらの大いなる不死の信仰に基づいて かれらの大いなる死を死なしめよ。死を死なしめよ。復活するべき者は復活してくるであろう。誰も カミに代わって 復活を命じることはかなわないのだから。死の制作者は――かれ自身は 肉体を持たず 肉体の死とは無縁である―― 権力によってではなく うたの構造の顕現によって 克服されねばらないと言われるからである。しかるのちに かれらを追悼せよ。《その秩序によって先行せる義》 そのかれらの長歌の真理をたたえよ。不従順の子らとはわれわれ自身のことであったということにもほかならないからである。
そのときには おそらく 新しいアマテラス者が出現するであろう。そのアマテラス者の性格については すでに述べた。あとは 時代の推移にまかせよう。ヤシロの長歌をうたうことは われわれの任務ではないからである。そのようないま一つの長歌を見つめてはならない。それらは なお経験的なものだからであり うたの構造は 方法の方法として 精神のうちに滞留するものではあるが 実践主観は 長歌の蔽いを必要とせず しかも そのつど 局面に応じた人間の言葉として ときに長歌そしてつねに短歌なる相聞を われわれの有として ひびかせる以外にないからである。
そしてわれわれは こう述べたあと 何と言おうか。スサノヲイストの出現にふさわしい言葉を用意したであろうか。このうた(それは 原形的な長歌である)は 虚言として アマテラス語の長歌虚構以下の虚言であろうか。しかし 《虚言は それを言うときにではなく 欺かれるときに 虚偽となる》。だから ヤシロは カミの似すがたとして 一つの虚構ではなかったか。アマテラス語は その似すがたの似すがたとして たとえ小部分でも真理に触れ得た大いなる虚構であるのではなかったか。それでは 何と言おうか。
ヤシロの《真理を 全体として観想する》 そのカミの似すがたなる人は この虚構の蔽いをうたい払いうるであろうか。それとも 新たな別の共同観念の蔽いとして 作りなし 第二のカトリックの時代を 現出させようと望むであろうか。そんな心配は 無用であろうか。
《つねに聖顔を求め》ゆくわれわれの旅路は 歩み進むに値しないものだろうか。コペルニクスの大転回は 不当だと言うであろうか。耳ざわりな長物にすぎないのだろうか。われわれは 変えられただろうか。われわれは 変えられるだろうか。相聞をうたうことは 必要ないことだろうか。もはや こと窮まったであろうか。
実践主観をすでに示したと言うのは 以上のように考えるからであるが パウロは次のように述べて これを総括している。
(つづく→2006-09-09 - caguirofie060909)