#39
――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917
付録 オホタタネコ・デモクラシの歴史的な展開
二 国家形態なる第三の展開例
大タタ根子を オホ田田ネコ あるいは オホたた〔ら〕(=蹈鞴)ネコのいづれとも考えることができるとするなら これは 生産にまつわる具体的で基軸的な行為を 両方で象徴したように受け取ることができる。
ちょうどこれを書いているときに 《稲と鉄 さまざまな王権の基盤 (日本民俗文化大系)――日本民俗文化大系〈3〉稲と鉄―さまざまな王権の基盤》という本が出版された。次のようにうたっている。
稲作および鉄の渡来と受容によって生み出された鉄の文化、争いと戦いの発生、王権の成立と構造、祭儀のかたちを通して古代社会の実像を探る。
- 作者: 森浩一,大林太良,谷川健一,網野善彦,高取正男
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 1994/11
- メディア: 単行本
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そこで 大タタ根子の両様の象徴を この表題のごとく捉えるばかりでなく 内容としてもこの本の諸論文に依拠したいと考えるのである。
すなわち 第二・第三のスサノヲたる人びとの渡来すなわち受容とかれらの同化といった歴史を 稲(田田)と鉄(たたら)との受容と開発展開という観点から このオホタタネコ共同主観すなわち日本人の成立というふうに 象徴させるわけであり このときまず
序章 稲と鉄の渡来をめぐって―民俗文化の伝統を再評価する:森浩一
第1章 稲作以前の生業と生活:佐々木高明
第2章 稲作農耕の社会と民俗:瀬川芳明
第3章 金属文化の受容と民開:森浩一
といった主題およびその論考の内容にもとづきたい。また
これらが オホタタネコ共同主観の三つの展開例を扱っており
第4章 争いと戦い:大林太良
が 基本的な展開例の中における新しい人びとを受容するときの具体的な葛藤の問題を 明らかにしてくれるようである。
もう少し詳しく言うと 上田正昭の第六章が 歴史文献学として ヒトコトヌシ‐オホタタネコ‐オホモノヌシなる私見・三位一体なるオモロ構造を 全体的に浮き彫りにし 谷川健一の第五章が 殊にわれわれの第三の展開例の過程また内容を明らかにしたと考える。
もう一度言いかえると 稲と鉄の受容の歴史という観点からの前半の論文では 性関係としてのセヂ連関・そのオモロ構造に直接かんけいしないが このオモロ構造をかたちづくるようになるヤシロの発展する基盤をよく明らかにしている。後半の三つの論文は 直接 オホタタネコ・デモクラシの展開史=ヤシロロジにかかわる。あるいはさらに 前半の諸論文が 日本の地について 西日本と東日本 さらには アイヌおよびオキナワなどのそれぞれの差異にかんしての考察を与えており これらの前提に立って 後半を読むことができる。
以上は ただわたしたちの観点から整理してみたもので 概括においてこの書物の論じるところに拠りたいと思うが いま整理した方面にわたしの筆は限られるかも知れない。またほかに さまざまな観点や関心に従って味わい深い中味を提供してくれる研究成果だと申し述べておきたいと思う。
さて いまの問題は オホタタネコ・デモクラシの歴史的な展開であり これをここでは セヂ連関・共同主観・一個の《根子》なるヤシロ資本主体・その自己認識 こういった観点から把握することである。
谷川・上田の両論文は いうならばヤシロロジ一般の観点から また いくらか批判的に見るなら 従来の学問的な手法で 歴史的なオモロ構造というものを 一つの鏡とし この鏡を見て捉えるという態度で 論じている。だから わたしたちは これらに依拠しつつも 鏡そのものを見るのではなく 鏡なるオモロ構造をとおして ヤシロロジ一般の観点からではなく 自己認識にかかわるオホタタネコ個人の主観(それが動態)という観点から いや その共同性・普遍性を持ちうるというべきオホタタネコ主観じたいを 尋究していきたい。ここまで来て 一つの焦点は 性の存在しないという主観の中の視点 これを模索しつつ すでにこの視点に立って ヤシロの資本形成の過程を そしてなかんづく 性関係としてのセヂ連関の問題を 論じていきたい。つねに 専門の研究者ではない者が 学問的成果を用いるというやり方ではある。
- ちなみに このやり方をわたしは吉本隆明に負うており 学問的成果を用いるというときの用い方・その方法では 異にしている。
- 方法は――おそらく まったくと言っていいほど 違うという応答を人びとからは返されると思うのだが つまり自分でも 表現された文章では まったく異なっていると自覚しているのだが―― 感覚もしくは気持ちとして 少なからずわたしは マルクスの書いたものを読んで会得したところもある。マルクスの方法を――わたくしなりに――継ぐときの全般的な考え方について 社会思想史では水田洋の マルクス解釈では平田清明の 殊にその哲学的な論議では広松渉の それぞれ研究成果に負うている。日本古代史では上田正昭に 日本語については大野晋に 文学では中西進に 同じく負うている。
- このような研究のごとき仕事にわたしを出発させたのは アウグスティヌス(中沢宣夫訳:アウグスティヌス三位一体論)である。マルクスとアウグスティヌスの双方を摂り入れさせたのは 大塚久雄ないしウェーバーだが そしてこれら二人にいくらか負うていたと思っていたが のちに方法は全然ちがうと気づいた。アウグスティヌスとマルクスに 方法において基本的にちがいはないという印象を はじめに持っていた。(一般論として これは とおらないようである。)
- 前史と後史 あるいは アマテラス-スサノヲ連関体系を 基礎的な理論にしたのは わたしである。
オホタタネコ・デモクラシが 第三次に展開したかたちにおいて 日子(第一日子)アマテラスの性倒錯形態(そのようなセヂ連関態)をとるとおしえてくれたのは 上記・谷川健一の論文である。谷川は もちろんこのような表現で言ってはおらず すべてわたくしの解釈であるが しかも 国家=《アマテラス‐スサノヲ》体制の《秘儀》(谷川の用語)を中心主題として明らかにしている。
わたしは この秘儀(つまりたとえば アマテラシテ象徴の位の継承の儀式=大嘗祭)の秘義(意義のほう)を 性倒錯なるセヂ連関に求めたのである。また オホタタネコ・デモクラシなるはじめの出発点の想定のもとにであった。
谷川は これについて つまり《先帝(その骸・その観念的な存在=観念としての存在=霊?)と新帝との同衾によるアマテラシテ位の継承》なる大嘗祭について 《皇祖霊を新しいアマテラシテおよびアマテラスが身につけて 復活する》秘儀だと言っている。《皇祖霊》とは われわれの解釈において 《大タタ根子を観念的にアマアガリさせたスーパー日子なる概念=観念=霊?》である。この霊と同衾し この霊を身に帯びるということ これが 国家の安定してゆく第三次の展開例における日本ヤシロ共同自治の中に位置づけられた。ヤシロ全体の秩序を願うそのオモロとして 共同自治もしくは統治の一方式だということである。
これの秘義――意義のほう――をわたしは おなり‐ゑけり連関(ヒメ‐ヒコ制)でもなく また 根子日子の連関なるオモロからの日子および日子圏の独立としての《第一日子と根子おなり(地方按司の妹ないし娘)の婚姻》なる性関係でもなく そうではなく 日子圏の中で 《第一日子(為政者のほう)とスーパー日子(象徴のほう)》とのセヂ連関なる設定であると考えた。儀式じたいは 象徴なるスーパー日子が さらに その象徴ともいうべき祖霊とのセヂ連関を実現するというかたちである。
ここで スーパー日子とは 時に大タタ根子の観念的な想像の世界における純化のごときアマアガリ形態――そしてさらには それに比されるべき先帝なり祖先の存在――であり つまりこれが ナシオナリスムなるオモロの根源だと看做されるのだと考える。
スーパーヤシロ・A圏なる日子たちのニハ(庭)で 第一日子アマテラス(もしくは その儀式のときには むしろアマテラシテとなっているかも知れない)が さらにそのスーパー日子なる観念(だから これが 象徴なる霊としてのアマテラシテである)と婚姻すると見るのである。その霊といったことは 観念的だが 儀式においては アマテラス天皇が 実際に 同衾するのである。(現実には ひとりだけであるが。)
諸アマテラス(社会科学主体・公民たち)も これに倣い はじめの《アマテラス圏‐スサノヲ圏》連関の隅々まで そのようなオモロもしくはセヂ連関のための観念の運河が まさにオモロ(思惟)構造として敷かれることになる。と考えるのである。
これは 一般の初めにはごく普通であったヤシロせぢ連関の観念的なアマアガリ形態であって 観念であることにおいて中性的となることによって ひいては 性関係としてのセヂ連関が 倒錯すると見る。――かつて ヒミコ・アマテラス(または アマテラシテ)体制は 権威について女性が優位となり 女性という性の存在把握が明確であったとしたなら まだ 性倒錯は そこでは 起こっておらず ついにそれ(性倒錯)が実際となることはなかったであろう。あるいは 聞こえ大君体制なら おなり‐ゑけり連関にのっとった王との連立オモロにおいて 純粋模型化したとしても むしろその模型は容易に崩壊し得るほどであったし それだけとしての女性おなりと男性ゑけりの問題であった つまり 性倒錯には至らない。このように考えられるとき いまの第三次の国家形態におけるオモロの展開例では 性倒錯とよぶべきセヂ連関のあり方が生まれたようなのである。
必ずしも オホタタネコなる根子市民のその現実の存在に 頼らないとするなら――つまり そうではなく それを純粋化して 祖霊のほうへ想像力を逞しくして 寄り添っていったのだから―― 反面では 中性的なセヂ連関の形式が 共同の観念として 道徳やおきてとなっていく。アマテラス第一日子が 究極の祖霊なるアマテラシテ象徴と婚姻を果たすというとき 一般の人びとは このアマテラシテにやはり同じく近づきオモロを同じくすると まずは 考えられるが 実際には 一般にセヂ連関のやはり純粋形式としてのような《徳》なる観念が いわば合い言葉となっていくのである。まさに《聖徳》である。そしてつまり この聖徳なる観念を共同化しあうセヂ連関の形式は けっきょくのところ 性倒錯と同じだということになるであろう。
- 自己なる人間の存在領域の中に 性の存在しない先行する判断力を想定し この意志としての視点から 性のからむセヂ連関に臨む このオホタタネコ形式ではなく そうではなく それから離れて 別種のオモロが現われたということを 繰り返し述べている。すなわち 性の存在しない領域の想定ではなく そうではなくして 性が存在しない人間存在じたい=つまりおそらく霊とよぶべき存在 これを想定し この無性または中性の霊的存在が 人間としても 現実に存在すると歌うオモロである。祖霊を身に帯びたアマテラスなる人間(かつ神?)が生きて存在し これを もう少し 具体的に捉えて 人格あるいは人徳の問題とすることも このスーパーオモロに含まれている。《聖徳》なる人間存在。あたかも これをオールマイティとして その切り札を持ち出すかのごときオモロである。
- 絶対主義とは そういうものであるかもしれない。
スーパー日子なる観念の共同は ちょうど《山葛をつける つまり形態として・しるしとして つける》のと同じように この観念の共同が 道徳かつおきてとなってゆく。人びとのオモロ(思惟)は 保守的にしろ批判的にしろ この共同観念の枠組みの中でなら 逆に 自由に おこなわれてゆくことになる。この自由が わたしは 性倒錯にもとづいていると見た。
なぜなら 性の存在しない大タタ根子(自己。またむしろ そこに《日子》を含む)を 観念的にアマテラス語化して スーパー日子なる形態としたからだ。言いかえると ヒトコトヌシなるカミを それとして 観念的に分化・独立させている。性の存在する現実のわたしが 性の存在しないオホタタネコ視点をもって 自己還帰するというのではなく その自己をヒトコトヌシに観念的に婚姻させる。一個の存在として《根子‐日子》連関主体である自己を 観念のスーパー日子に婚姻(還帰)させたからである。具体実践的には ヤシロの人びとのあいだには いづれの性にも属さない性関係としてのセヂ連関が あたかも流通するようになるということだ。この観念の手形は すぐれて中性的である。この中性を媒介するなら 両性は 互いにけっきょく倒錯するに至る。ただし 一般的に言って それは 観念的にである。言いかえると 観念的にまでは ヤシロの現実において その観念の運河が 目に見えない形で しかも 強固に 穿たれ この水路は きわめて自由に 性関係の意識なる水が 流れに流れている。
言いかえると 自己が オホタタネコのマツリの中にあるのではなくなったかの状態におかれ スーパー日子のマツリゴトの中に婚姻を済ませている。そういう想定のもとに ヤシロ生活が あらゆる人びとにとって 始まるし 実際に営まれる。
これは 性の存在しないという判断力の視点・その意志行為の動態ではなく また性を放棄するという考え方でもなく そうではなく 揚棄しようと欲しつつも 性の存在をとどのつまりは大いに肯定するための秘儀なのであり もし性の存在しないというオホタタネコ視点(そういうセヂ連関のちから)が或る女性的なものであるとするなら これのアマテラス語観念化であり その観念はスーパー日子があたかも担っており だから このスーパーアマテラスなる観念への婚姻は その婚姻をとおして人を或る種の仕方で 女性的なものとする。なぜなら オホタタネコ視点なる女性的なものは 人が 自ら そして 自然本性においておのづから 動態的に分有するものであるにもかかわらず 一たんヤシロせぢ連関の運河をとおしてその共同観念との婚姻を通らなければならないというとき それは やしろの共同生活なる動態を安定させるためにのように 人をまず儀式において女性的なものに変えようとするものである。
すでに誰もが一人ひとり自然本性としてのように分有しているオホタタネコ視点を わざわざ新しい理論(おもろ)のもとに共同の観念として しるしづけることは その入社式での時点じたいが 性倒錯なのである。性関係としてのセヂ連関の過剰だとも言えるかも知れないが やはり錯視がある。曲折がある。そうする必要のないものを しるしとして飾るわけだから。
わたくしの議論も 茶の木畑に入ったようだが こうである。もし賛同いただけるなら 人間存在には 先験的に性の存在しない判断の領域があり われわれは 一人ひとり この視点を自然本性としてすでに有しており これを活かして セヂ連関を形成し共同自治していくことができる。ここに秩序(それは 動態)があり これを オホタタネコ・デモクラシと呼んだ。このとき 現実には 男か女 いづれかの性において われわれ人間は存在している。
このとき 真似ているのだが 別様のオモロが発生した。それ以前のおなり‐ゑけり(ヒメヒコ)方式のセヂ連関において ヤシロの秩序を求めるのではなく つまりその点でオホタタネコ視点を継ぎつつ しかも この視点を わざわざ あたかも現実に一人の生身の人間が その血筋なる霊において その視点を一身に体して存在するというオモロのうちに 捉えようとした。ひとつには もはや 処女の思想をも超えた。ひとつには 倫理思想として 聖なる徳の問題として 人びとの想像世界に 究極の理想を見ようとする純粋オモロである。
だが これをも超えた。人間のまたヤシロの根源なる推進力を セヂ連関における究極の霊的な存在として想定する。オホタタネコ視点を このように 純化し 観念の世界に持っていった。このセヂなる霊は すぐれてヤシロを統率する第一日子・スーパー日子・アマテラスの中のアマテラス その象徴なるアマテラシテ 具体的には その血筋その系譜その祖霊の永続性だということにある。こういうオモロである。
言っておくけれど この性倒錯からの解放は 現在の《アマテラシテ / アマテラス‐スサノヲ》連関形態の中でも そのままで実現できるのであって そのように いま現在の自己にオホタタネコ共同主観が復活する 自己が自己に還帰することによってであるというのは そのようなヤシロのセヂ連関形態は オホタタネコ・デモクラシにおいて まず仮りのものであったという点に根拠がある。言いかえると アマテラス圏の・またはA圏への 権利の要求 つまりA圏の保守あるいはA圏への抵抗によって オホタタネコ・デモクラシを継承することができるというのではなく 自己還帰した根子スサノヲ市民が このヤシロの全体的なセヂ連関形態に対して 歴史的にオホタタネコ視点を受け継いで 生きる・共同自治するというように 向きが変えられることによってである。
制度的にもヤシロ形態を再編成すべきであろうが さしづめ 一個のヤシロ資本主体が セヂ連関の主体として 前史から後史へ回転することによってである。もちろん 後史にたった新しい根子は 互いに 新しいセヂ連関をそのとき形成して行って構わないわけであり この共同主観は 制度的にも改革へと向かうであろう。ただここでは この新しい動態の過程をのべることが 任務であり その新しい過程では なお 万機公論に決すべしというのが 一つの正解であろうと考えられる。
一般に このスーパー日子への婚姻なる秘儀は 男がよくこれをおこなう。女性的なものとなって男は 女とセヂ連関をむすぶとすると 女は 男のもとの性すなわち男性を身につけるというふうに 取り替えっこする。このような性倒錯の中でのセヂ連関が 道徳となり観念の運河を 日常生活のうちに 構成する。
- ちなみに 日本人の男には 女性がいると遠藤周作は言っている。男に乳房があり 子を産むと言うのである。
わたしは このようにして――この第三の展開例では―― 人びとが新しい渡来者である第三のスサノヲを受け容れた そのように受け容れざるを得なかった そしてこのオモロが 共同観念となって行ったと言おうとしている。《我れ韓神の 韓招ぎせむや 韓招ぎせむや》というカグラ歌は この共同観念オモロの形式をうたって示したものだと考える。性倒錯しているから――しかも それが オホタタネコ共同主観つまり 性の存在しない視点であると思ってしまうから―― 新しい人びと・もっと言えばよそ者を すぐれてよく 受け容れ 共存することができるとオモロするようになったのである。自己の存在を ここに人びとは 見出している。
ところが これが 客人(まれびと)のオモロであり 幻想であることは 自分がいちばんよく知っている。不本意にも スーパー日子の共同観念を飲んだ――入社式のとき この踏み絵を踏んだ――ということを いちばんよく知っているのは 自分である。性倒錯による――時に《和》をもってする・事なかれ主義の―― 一般セヂ連関つまりお付き合いに入ることが 不本意なものであることを知っており ただやしろの共同自治のためには仕方がないと観念したのである。そうして オホクニヌシのように 国譲りをしたのである。
けれども スサノヲの後裔であるオホクニヌシが タカマノハラ主義のA圏にくにゆづりをしたのは お客さん意識によってではなく ヤシロ資本主体の共同主観によって A圏をめざす人びととも 共同自治していこうとハラを決めたことによる。この弱い者の動態を選んだのである。ところが オホタタネコ共同主観は 第一・第二の展開期を経て 第三の展開形態に入ってしまった。アマテラス圏は お客さん意識のオモロを固めてしまったのである。あの《第三転》つまり 中世封建市民の時代にも この国家形態の観念の資本制の枠組みじたいは 消えなかった。世界史的に ナシオナリスムのオモロは必要であったから。わづかに スサノヲイスト(根子)としてアマテラスとなった徳川氏の封建くにやしろは 情況のゆるす限りで 鎖国なるオモロ構造をえらんで行った。
島国であったから出来たのであろうが 島国であれば つねに そう出来るとは限らない。インタナシオナルなセヂ連関を継承しようと思えば スーパー日子のオモロが必要となると考えたからであり また これを知らず 性倒錯の継続を嫌ったのである。だから このときには 一つにはブッディスムの道徳 これによるセヂ連関のオモロを必要とした。共同観念の枠組みの潜在的な力をまだ 意識したからである。
やがて――時代をくだって―― 観念的な聖なる婚姻によることなく 性倒錯による性ののり超えによるのではなく 性の存在しないオホタタネコ共同主観が復活する時代がやって来たのである。このとき ちょうど ヒミコのヤマト連合を形成したりしたように 旧い共同観念オモロが動揺し 共同主観はくすぶりつづける期間を持った。いまの時代が それである。
観念との婚姻が 性倒錯なのであり それが 性関係の解放(のり超え)であるとか 和・礼儀・両性の平等だとおもってはならない。観念(そこに 性は存在しないと錯覚する。それは 観念的な――つまり昔からヴァーチャルな――性・セヂ連関なのだが)との婚姻を済ませたから 性は 《自由》だとオモロする。沖縄では この性倒錯を オホタタネコ共同主観の第一展開例として おなり‐ゑけり連関の保持の中に 防いで 推移した。この純粋模型なる形態が容易に滅んだのは 兄妹関係なるセヂ連関の中に自己を認識することが ほんとうの自己ではないと ヤシロロジ次元では 悟ったからである。聞こえ大君なるアマテラシテないし按司添いなるアマテラス つまりそのようなオナリ‐ヱケリ連関 との観念的な婚姻も――それによって性倒錯を防ぎつつも―― セヂ連関の動態ではないと知っていた。セヂ連関が動揺をきたしたので立てられたヒミコ(ヒメヒコ制)の変則形態が そうであるのに ヤシロロジとして よく持ちこたえるのは ヤシロの全スサノヲ玉砕といった危機意識が均衡を保っている限りである。
つまり 第三の展開例においても 観念的なヒメヒコ制(実際には アマテラシテ / スーパー日子 とアマテラス予備軍との連立制)が生起したと言おうとしている。セヂ連関オモロが 動揺をきたしたので アマテラス予備軍が 観念的なヒメつまりスーパー日子を 絶対的に持ち出すという自己認識のやり方である。
これらは 稲と鉄(まとめて その生産主体である大タタ根子)を 必ずしもオホモノヌシにおいてではなく ただちにタカマノハラの霊とみなしてヒトコトヌシに問い求めるオモロのやり方である。オホタタ根子は つねに 沈黙のうちにも見出されるのであるが だから そこに ヒトコトヌシあるいはオホモノヌシにかかわる共同主観(主体)として存在しているにもかかわらず あせってこれを 観念的にアマアガリさせる。アマアガリしたヒトコトヌシのカミからアマクダリして観念のセヂ連関水路を通すならば 何ごともうまく行くとオモロする。性倒錯しているから 性倒錯のたががゆるんだとして これを締め直すのである。
これが 現在のカミの国であるだろう。このタカマノハラの自由をゆるして 国ゆづりしている弱いスサノヲたちのヤシロ(内的)が カミの国であると昔から言われて来たのである。
(つづく→2006-10-27 - caguirofie061027)