#34
――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917
第四章 ゑけ あがる三日月や
第五のおもろ セヂが祝祭のちから
一 げらへ沖縄(ゆきなわ)が
首里杜(しょりもり) 降れわちへ
世添うせぢ
おぎやか思(も)いに みおやせ
・・・
又 君ぎや 寄り立たば
雲子 寄り満ちへて
又 君ぎや 寄り立たば
金(こがね) 寄り満ちゑて
(日本思想大系〈18〉おもろさうし 五・236)おもろさうし (同時代ライブラリー―古典を読む (334))
- 作者: 外間守善
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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このオモロは もし主観を表わしているとすれば――つまり 表現=疎外されたものが なお主観の外に出ず 形態的なしるしとならず 主観の動態(愛)をあらわしているとするなら―― なんと搾取に無知な原始心性の極みを露呈していることかと思わせる。ゆえに なんと人間の限りなき愛のちからを――その作者自身がただちにそうでないとしても―― うたったものであることか。
わが愛の力をすべて 王に差し上げよ。聞こえ大君が わが村に寄り立てば 黄金も宝物もすべて差し出せと言うのである。
げらへ沖縄(=神女名)が 首里杜の聖所に神の霊の降りるとともにこれを受けて 世を守るせぢを おぎやか思い(=尚真王の称号)に みおやせ(さしあげよ)。
- 雲子は 美しいもの・宝物の意。
ここには なるほど 国家形態のオモロ 観念の資本制 その観念の運河 がある。しかし 作者は 観念の運河の 分析学者ではなく その傍観者でもなく きわめて原始心性としてのように愛の主体として 位置する。観念の運河なる夢の中で その論理をも知ろうと欲したのではなく ただ 生きようと欲したのである。
我妹子が 穴師の山の
山人と
人も知るべく 山葛せよ
山葛せよ
深山には
霰降るらし
外山なる
真析の葛 色づきにけり
色づきにけり
(神楽歌)
これ(第二章第六歌を参照)は 傍観者ではなくとも 観念の運河に乗れと言っている。そうすれば みな うるおうであろうと オモロしている。また これに対して いわゆる反体制派の人びとは この観念の資本制を 《科学》的に分析する。これを 搾取の構造だと言ったのである。
- わたしも A‐S逆立連関なる構造において共同観念オモロの共犯構造だと言った。
タカマノハラ(ヒトコトヌシ)を神とするというしるしを付けよ その踏み絵を踏めと言っている。あとは 日本人だから 皆分かり合えるだろうと。
げらへ沖縄のオモロは タカマノハラ(また 首里杜がその聖所で通い道であるところのオボツカグラ)の霊を力として アマテラスおぎやか思いに 愛を尽くせ みな 原日本人なのだからと。聞こえ大君が立ち寄るなら 雲子も金もすべてさしあげなさいと。
- 弱すぎるけれども 真理に謙虚である。
ヒトコトヌシは コトが時間=自己=動態であるから われらの神であり そのしるしを付けよ つけなければ ムラハチブにするぞ つけるなら 観念の資本は動き 安泰であるぞよ これに適応しない分裂質は アンテ・フェストゥムの 同じくうつ質は ポスト・フェストゥムの 同じく適応しすぎるてんかん質は イントラ・フェストゥムのそれぞれ精神の《病い》をわづらう狂人であると 精神分析学(つまり 韓神 いや 欧神のオモロ)の系譜の一部が このタカマノハラ体系を 補強する。むろん経済学も何もかも それとして 総動員される。
オホモノヌシが われらのセヂ連関の動態であって タカマノハラなるアマテラスおぎやか思い / アマテラシテ聞こえ大君には すべてのモノを差し上げろ 差し上げなければ 人間(オホタタネコ)が死ぬぞ 差し上げるなら ヤシロ資本連関はわれらが力で運営してゆけるであろう いまこのオモロをうたって進もう 《板清らは 押し浮けて 棚清らは 押し浮けて 船子 選で 乗せて 手楫 選で 乗せて》。
《弥に 弥 走れ ゑおい》。
それに対して みな日本人なら 山葛をつけ踏み絵を踏んだみな日本人なら 《おけ おおおお》。
ヒトコトヌシの《神学》が 国家形態のオモロである。オホモノヌシの動態的な愛のオモロが生活である。人間である。
しかし 国家形態の観念の運河にかんする科学が 愛でないとは言われなかった。ヒトコトヌシは 神である。しかし 分析論理の科学なる文字は 人を殺すと言われた。オホモノヌシの霊が 人を生かすと。
やしろセヂ連関が 現実なのである。前史から後史へ変えられる動態なのである。モノが コトなのである。オホモノヌシが ヒトコトヌシなのである。なぜなら 人間オホタタネコが ヒトコトヌシなる神の 現(うつ)しオミであり 現人神なのだから。
ここで わたしも気が狂ったとの誤解があってはならない。現人神の語・概念を人間 少なくとも日本人は 持ったのである。むろん セヂ連関なるオモロの問題である。持っていたときの日本人はみな 気が狂っていたのであろうか。仮りの共同主観オモロの中で ヤシロロジとして そう名づけ そう用いたのである。けれども シントイスム(オホタタネコ・デモクラシのアマテラス語表現形態)は 正当にも 人は死ねばカミになると共同観念した。家康も大権現(神仏が仮りに人となって現われた存在)となった。また 多くの自称聞こえ大君たちは 生前にすでに自分たちの生き神さまを拝んでいる。また日本は 正当にも セヂが人を生かすと言われた。
ヒトコトヌシは カミである。オホタタネコは 人間であるが カミの子であると共同主観された。オホモノヌシのセヂが 宿ったからである。この霊的な共同主観のゆえに 神の国であると言われたのでないなら 人は 永遠に原始心性であるか さもなければ はじめから神であるだろう。
(つづく→2006-10-22 - caguirofie061022)