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哲学いろいろ

#38

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

付録 オホタタネコ・デモクラシの歴史的な展開

一 三つの展開例

オホタタネコ(意富多多泥古・大田田根子)は オホ・タタ・ネコであり 大タタ根子であるとわたしたちは考えている。
タタははっきりとは 分からない。鉄の生産にかんけいするタタラであると考えると アダム(男・人)・スミス(鍛冶)と比較されて おもしろい。田田であるのかも知れない。ネコの根は ネの国のネ 木の根のネで また 大地を表わすナ(満州語 na =土・土地。なゐ=土居 / なゐふる=土震など)の転という見方を 定説としている。根子は 日子との対称概念であったかも知れないし 根子が発展して日子と呼ばれたのかも知れない。オキナワでの《根神・根人》(マキョ・一族の)と 按司(間切・ムラの)および按司添い=王(くにやしろの)がそう呼ばれたところの《テダ(太陽・日)・テダ子・テダが末》とが 関係するように。
古事記にしたがうと ミマキイリヒコイニヱ(崇神)の前の三世代に オホヤマト根子日子フトニ オホヤマト根子日子クニクル ワカヤマト根子日子オホビビとそれぞれ呼ばれる按司(または按司添い)が 存在したことになる。むろんしたがって このように根子(S)‐日子(A)連関を人びとが その限りで 形成しようとした時代だとも考えられる。
この限りでなら その後の新しいミワのヤシロ形態(少なくとも構想として)を つまりアマテラス‐スサノヲ連関形式として ミマキイリ日子とオホタタ根子の連関に 類型的に表象し 共同主観して行ったのかも知れない。
古事記のアマテラスの系譜(特にいまはその順序)に従うと 根子日子という名のつけられた三代のさらに前では オホヤマトタラシ日子クニオシヒト ミマツ日子カヱシネ オホヤマト日子スキトモ等々とさかのぼっていくことになるので いづれも日子のみがつけられており このことは この日子のみの場合が 一個のムラの按司たるテダ(また オボツカグラ)をあらわし 次の根子日子なるアマテラス三代が それらの按司襲いとしてのテダを――殊に ミマキイリ日子イニヱという日子のみの場合をそれとして―― あらわすと考えることもできよう。ちなみに ミマキイリ日子のあとのアマテラスは イクメイリ日子イサチ オホタラシ日子オシロワケ等であり 日子のみがある・もしくは日子も根子もないかたちが一般である。

  • 根子のみが シラカノオホヤマト根子の一例あり。このアマテラスには 子がなかったことと関係するか。

これらは 情況証拠である。このような観点から オホタタネコ(つまり市民)・デモクラシなるオモロ構造を その展開の大筋において 捉えてみようと思う。本文四章の議論にもとづいて 次のように。



オホタタネコ(ここに 《根子》のオモロ思弁的な・そして形態的なアマアガリ概念としての《日子》を 構造的に含んでもよい)なる人間・自己また市民 そのようなヤシロ資本主体 あるいはそのようなスサノヲ市民のセヂ連関(つまり intersusanowoïsme ) この存在と原理とにおいて 性は存在しないというのが 一個の結論的な視点であった。
この視点の内包するところは 一つに セヂ連関を おなり‐ゑけり関係 イザナキ‐イザナミ(兄妹としての)関係 また同じくヒメ‐ヒコ制としては 認識しないということである。言いかえると 性は存在しないと言いつつ同時に男と女との関係として セヂ連関を認識するということ。もう一つに キ(=男。イザナキのキ)でありミ(=女。イザナミのミ)であるそれぞれ人間・市民の自己を 構造的な一要因だけでは捉えず つまり根(身体もしくはスサノヲ圏)だけの次元で捉えず しかも 根子(市民)の概念を基体としつつ ヒコ(日子)ヒメ(日女)たる存在形式を 含むということ。この日子日女の要因を捉え含めば 図式的には アマテラス者・公民の概念をかたちづくると見る。
一個の市民が 《根子(S;または根カミ・根ヒト)‐日子(および日女;A)》の連関的な構造を 当然のごとく有するということ。

  • これは 《あかぐちやぜるままがなし‐おぼつかぐら》のオモロ構造と同じである。

これら二つの点をまとめるて言いかえると 人は 基本としておのおの根子でありつつ そして同じく基体(身体)として 根カミか根ヒト また日メか日コ つまり 女か男かいづれかの性でありつつ しかも これを概念として捉えるとき 《根カミ‐日メ》連関ないし《根ヒト‐日コ》連関の一個の主体でありうる。一個の《市民》が それぞれ《公民》でありうる。つまり このことに例外はない。公理のごとくにである。
このような人間の存在形式の全体を捉えて ヤシロ資本主体として自己認識し さらにまたは自己還帰するとき 人は そこにおいて性は存在しない。というほどの視点であった。

  • 《根子(市民S)‐日子(公民A)》連関の一個の主体であるというとき この概念じたいにも性は存在しないであろうが このときの 性は存在しないと言うあり方は ただ 表現・伝達の手段(アマテラス語理論)としてそうであるのみであって われわれが オホタタネコに性は存在しないというときのこころとは違う。後者のばあいは 上のアマテラス語理論としての表現を与える場合のその視点を指して言う。視点を与え また 視点を持つ主体について言う。
  • 言いかえると この視点をもってアマテラス語理論しているその人が セヂ連関を形成して生きるとき そのような視点からそのように表現(行動)して進むなら いわゆる人間の真実を伝え得るという限りで この真実のいわば場には性が存在しないというこころである。
  • われわれが 相互に意志を伝達しあい 理解しあうというのは 性として存在するおのれどうしとしての関係の或る種の仕方で前に・それ以前に 性の存在しない真実の表現をとおしてであるというほどの意である。自己という存在の先験的な場には 男か女かを超えた意志の主体がいるかも知れない。
  • わたしが セヂ連関を 男の女に対する関係と言って 女の男に対する関係とは言わず そしてそれが明らかに 男の立ち場から言っているとするなら この表現には 性としての存在の以前としての心ではなく その存在と同時のこころざしに言い及んでいる。これは 人が矛盾と考えるかも知れないし わたしとしては このような例のばあいには 性の存在を前提とした上でなおかつ それが真実であると思われるところの・性の存在しない表現の手段の領域で そのように言葉するかも知れない。それは 性の存在しない・人間の自己のあり方として 性としては男であるオホタタネコの共同主観・デモクラシと言うがごとくである。
  • つまり 自己という概念に ネカミ(女)・ネヒト(男)を含めて言うばあい 男性の概念である根子――なぜならそれは 中性ではない また 独立・分立するような女性でもない――という言葉で表現するのである。そうでない場合 つまり 女性にかたよるか それとも 第三の行き方としてのように中性概念を主張するかの場合 いづれも両性の現実的な(動態的な)平等を問い求め得ず 見出しがたいと考えられる。
  • この後半のことがらは まだ証明したことにはならないが。

そこで このオホタタネコ共同主観つまりインタスサノヲイスムは オモロ構造としてどのように――いまは日本人の歴史をとおして―― 展開してきたか。
まず 結論的に 基本的な図式を提出しておこう。

第一の展開例

インタスサノヲイスムを セヂ連関の核として おなり(姉妹)‐ゑけり(兄弟)関係に――それは 伝統的なものでもあった――求め 一個のムラとしてのヤシロ資本(按司‐のろ;根人‐根神)においてだけではなく くにやしろ資本(前者二組と 聞こえ大君‐按司添い)の全体まで 拡大構造化するばあい。またこれは むしろ通説に反して いくつかの条件を付して ヒミコのヤマト国のばあいでもあるだろう。

第二の展開例

ヒミコのヤマト国が 《日女‐日子 / のろ‐按司 / 根神‐根人》などいくつかの階層的なおなり‐ゑけり連関を根幹とするなら――いまはこのように拡大解釈するのだが―― そのときにも存在したであろう階級的な分裂 これを セヂ連関の核(動因)とするばあい。つまり この場合 頂点(おぼつかぐら)の第一階層を いわば絶対的に分立させる方式であり おなり‐ゑけり連関ではもはやなく さりとて女‐男の関係でもなく おそらく抽象的に・ということはあたかも第三の性の概念を設定してのように その言わば中性存在の論理によって 《日子(A圏スーパーヤシロ)‐根子(S圏ヤシロ)》の階級関係をもって全体的なヤシロ共同自治の方式とする例である。
第一例・第二例いづれの場合でも 国家・ナシオナリスムなるオモロ構造を採りうると思われる。第一例がそれとなるのは オキナワの場合であり 日本では そのような純粋模型を形成しなかった。ヒミコのヤマト国家連合も そこまでは行かなかった。つまりいわば危急に際して ひとえに《聞こえ大君〔‐按司添い〕》体制を指向するような例であるだろう。またそのような条件のもとに そのオモロ基盤も 成り立っているものと見られる。

第三の展開例

これは まず その付随的なあり方を印象批評ふうに述べるならば 第二の展開例なる国家形態の中に 第一の展開例の或る種の仕方での復活を見るばあいである。より基本的には 第二の展開例が 基本的な類型として 《アマテラス圏(タカマノハラ / スーパーヤシロ / おぼつかぐら)‐スサノヲ圏(アシハラ / ヤシロ / あかぐちや)》連関なる一個のくにやしろ資本形態を確立する場合である。
第二例と第三例とのちがいは 第三例が次のようである点にある。日子と根子(そして このばあい いづれも抽象的・中性的な概念)との階級連関をすでに固定し――それは ヤシロ資本の剰余に対する所有・私有の絶対的な分立の問題である―― しかもすでに必ずしも《第三の性》の概念を前面に押し出さなくてもよい国家の安定する時期を言う。
たとえば 第二例のときのように 根子と日子との階級関係を絶対的にまず分立させなければならないなら したがって 日子の圏を独立させなければならないなら 一方で 性は存在しないというオホタタネコ思想を 中性もしくは第三の性の概念(=アマテラス語観念)で 一般に神話として(つまり 神々の時代またはその直接継承の時代として) 共同観念させなければならないが 他方で 為政者である日子(按司添い)は 上層の根子(諸按司)との現実の性的な(血筋・家系的な)婚姻関係をも結ぶ必要があるであろう。日子圏を根子圏から独立させていくために これら両方の施策を必要とするであろう。
第三の性というのは 根の圏と日の圏とを分離させ後者を独立させるために おなり‐ゑけりの連関にも また そのいづれかの性にもよらないという方針を立てたのなら 消極的に いづれの性でもない性のあり方が問われ 問い求められたというほどの意味である。斎宮 あるいは あからさまに言って処女といったあり方に たどりついた。
もう一度 整理しよう。
オホタタネコの共同主観オモロ そのデモクラシかつ人間の自己還帰の思想 これについて いまは 性が存在しないというオモイを取り上げている。おなり‐ゑけり関係を止めつつ揚げて 男の女に対する関係なる新しいセヂのあり方を問い求めている。
図式的になるが ひとりの個体においても 《根子(身体)‐日子(精神)》の連関 ヤシロにおいても 《根子(市民)‐日子(公民)》の連関 このようなヤシロ資本主体であること ここには ヤシロ資本推進力としてのセヂ連関が はたらくであろうと考えた。おなり神 あるいは妹の力も それらを否定するわけではないが――特に  セヂは女性的な力であり ヤシロ資本の形成に必要な知恵は 女性的なものであるという共同主観に変わりないようにであり―― けれども 兄弟姉妹の連関としてのセヂ関係は すでに母斑であって前史にあると捉えた。
このとき このオモロにあたかも従って 従いつつも 別個に 国家構想のオモロを歌う人びとも現われた。しかも その国家形態は 日子たちが もっぱらの日子となって またさらには その中から 第一日子を立てて 自らの日子の圏を 根子圏やしろから 分離独立させるという歌である。基礎階なるスサノヲシャフトの上に 第二階を築こうというものである。このとき セヂ連関については まず確かに 性の存在しないセヂ関係を同じく歌い それでこそ日子であると自負しつつ さらにその根拠もしくは具体形態として ここでは別様に あたかも第三の性なる概念を持ち出してきた。むろん われわれの視点からいけば ありもしない性の概念である。人間は 想像力がゆたかであり じつに たくましい。
両性の関係としてのセヂ連関は わづかに 第一日子アマテラスのむすめを いづれかのカミにささげつつ 斎宮として あつかう。つまり はじめの共同の主観をそのようなヤシロの中の役割としての性の存在へと つまりその無なる性の観念へと 収斂させ これを共同に保持するというオモロである。そうすれば 性の存在しない先見的な《われ》というオホタタネコ視点に立ちうるという別様の歌をうたったのである。
また おそらく 公民アマテラスが基盤とするオモロとその担い手であるオホタタ根子の役割については 自らの日子の圏の内部に オモロ専従の日子たち(学者・評論家等のそれとしてのアマテラス予備軍)を集め これを 当てたと考えられる。ゆえに その日子圏は 赤口や=S圏やしろから あたかも独立することができると踏んだのだと思われる。 
すでにこの第三例において 日子のA圏を独立させてしまったなら つまり言いかえると日子圏に日子の群れ(アマテラス予備軍)をおおきく形成し取り込んでしまったなら このオホタタネコ思想の中性化は――根子圏のほうではもはや自由に存続させるにまかせつつ―― 日子圏ではほぼ成り立ったかに思われる。日子と日子との――いわば貴族どうしとして自ら誇りを持ち合うところの――セヂ関係としてのヤシロ的なきづなは ――ここで 根子圏から根カミ(女性)を日女として召し上げるという一面での出来事もさることながら―― 日子どうしの家の婚姻関係も じつは オホタタ根子の主体の思想によって 行なっていけばよい。そして 斎宮なる役割の存在もさることながら けっきょくあとは 他方では 日子圏の中から その第一人者を 日子圏そのものの保守のために選び出し 立てて これを 抽象的・中性的・象徴的な日子とすればよいことになる。アマテラシテという概念を立てて われわれが捉えるそれである。
じっさいには このことが また 性倒錯の方面に関係するように思われるのだが。ということは この上層の日子圏の中で けっきょくは何らかの形で 聞こえ大君と按司添いなる王との関係やその存在のことが かかわっているようにもなるようである。象徴と権力の実行者とが あたかも 聞こえ大君と王とのセヂ連関のごとくになってくる。後者は どこまでも オナリ(姉妹・女)とヱケリ(兄弟・男)の関係であるが 前者は あたかも中性化(聖化?)したアマテラシテ存在と ふつうのアマテラス為政者(男または女)とである。こちらの連関のあり方は わかりにくい。セヂ関係として あるいは性の存在しない人間関係として その性の問題にかんして わかりにくい。だが ただ その出発点は そもそも オホタタネコ・デモクラシのセヂ関係共同主観ではある。このデモクラシを どこまでも そのオモロの少なくとも一部には うたいつづける形をとるようである。和を以て貴しと為すとも言う。
おおまかに言って けっきょくは このアマテラシテとなる第一日子は セヂの性関係としては 中性化を帯びると思われる。
言いかえると この第一日子が中性化する時期が 国家の安定期である。ここで中性化とは あらためて言って 実質的にはヤシロの推進力としてのセヂの力がもし女性のほうにあると(または人間の知恵が 性としては女性的なもののほうにあると)考える限りで 性倒錯つまり 男の女性化を伴なうことを言う。また 変わった見方としては 主に外から新たな神を招いてのように なんらかのかたちで 互いに互いを あらたな神と看做しあうことなどを含む。(韓招ぎせむや)。
ただし 性に対して――時に 中性的に 性に対して――貪欲なほうが 中性としての神(神々)と見られるばあいがありうる。これは いわゆる通俗的な意味での英雄がそれであって それは 死ねば神となると言われるような場合と連動している。
また あらかじめ述べると 国家形態の時代において 第二例のときには 根子圏の按司の家から その按司のおなり神(女性)を取り上げるためのように 日子は 妻として――神の妻として――根カミないしノロを娶ったが つまりいわゆる采女(その前身形態のごとく)としてそうしたが 第三例のときには このようなかたちでの采女はなくなり(やがて 制度もなくなる) 逆に 日子は自己(その圏)のオナリ神=ヒメ(このばあい むすめである)を斎宮として 根子圏へ向けてのように 送り出す。
これは 第二例のときには 一方で 性の存在しないオホタタネコ思想を おなり‐ゑけり関係が セヂ連関の中核であるとする思想を否定するものとして捉えたのであったのが だから他方で 根子圏からおなり神を召し上げるという現実の性的な関係を取っていたものを 第三の展開形態では 一面で 日子圏の中でなんらかの形で現実の性関係を形成し――十分に形成し得て―― 他面で 性の存在しないオホタタネコ視点はこれを おなり‐ゑけり関係の否定としてではなく(むしろ 復活させてのように) 性の存在しないではなく中性という性の存在すると言ってのような共同観念的なセヂ連関(むろん 幻想になりうる)として オモロとしても歌い そのような観念の運河を堀り進み(=ネットワーク) その中の第一日子は きわめて中性的なそのセヂ連関の統領・象徴(アマテラシテ)となって行く。
簡単に言って ここで性は あくまでも男か女でありつつ先験的には性の存在しないとうたうオホタタネコ視点に立ってではなく 観念的な中性的な セヂ連関としての性関係を結ぶ。もっとわかりやすく言うと 性は 性の存在しない性関係と そして現実の性関係とに 観念の中で・人びとの頭の中で 分かれてしまった。(聖と俗とと言ってもよい。)おおきく言えば きわめて大きく言えば どちらも 愛であるが――いかに 曲ってしまっても セヂ連関として愛であるが―― 一般的にいえば 禁忌(タブー)が発生したということであろう。
それがいい意味でだと思われることは 人前で性が それとして 存在しないという建て前をとること そしてこのことが 性の個体的なかつインタスサノヲイスム(セヂ連関)的なあり方を それとして よく 示すからである。

  • 性の存在しない先験的な自己なる存在(オホタタネコ思想主体)が 現実にヤシロのセヂ連関において 性関係をむすぶというのは 必ずしも 公的に公開のかたちで また集団として おこなうというのではないことを意味すると言える。

悪い意味でというのは この個体どうしの関係としての性のあり方が 一般に むしろ タブーに反することをその動機とするようになるからである。オホタタネコ共同主観において そもそも タブーなど ありはしない。しかも むしろ男か女かがはっきりしている。それが はっきりしなくなったし はっきりさせることが タブーのごとくなったし はっきりさせるときには 一たんすべてを観念的にあたまの中で 模擬実験するかのように 想像し 組み立ててからするようになった。しかも この最後の事柄は 人びとの頭の中が その観念と想像でいっぱいとなり もはや《以心伝心》というべきかどうか なんら言葉を発しなくても 何を考えているか分かってしまうというところまできている。島国だからなのだろうか。
この後者のばあいでは 一般的な公のセヂ連関が だから 観念的にだが実際の人間関係が まさにその人間関係において 性関係そのものとして押し出されて過程するようになる。どういうことか。テレビを見て――だから観念的に(ヴァーチュアルに)・また観念共同的に―― 人は 性関係を結ぶようにさえなる。また逆に この観念共同の性関係としてのセヂ連関つまり 一般に人びとのそのような互いの関係が むしろ道徳・倫理ないし法律(聖徳太子の十七条憲法の三つをわれわれは見た。第三章第七節)となって固定し 停滞する。
また かんたんに言って 第二展開では――第二展開例は 一般にヨーロッパのヤシロ資本連関にかんするオモロのあり方に近いと考えるが―― 日子も 男と女の関係としてのセヂ連関の中にあったが 第三展開では 第一日子は 祖神もしくはタカマノハラA圏としての抽象概念たる《日子》(具体的には みまかった先帝・その祖霊)とセヂ連関をむすぶ。(大嘗祭)しかるのちに 現実の性関係がある。また 一般に オモロが 道徳の見本となる。
これは 性の存在しないオホタタネコ思想を その視点とそして現実とに分離し この視点を抽象アマテラス語概念とせしめ A圏(その家系)ないしナシオナリスム全体の 根源のようなものに置くようになるからである。人間を 《根子‐日子》連関主体としてではなく 《根子‐〈日子‐スーパー日子(=第一日子)〉》なる連関主体として想定するようになる。(習慣の強さは おそろしい。)それが全部ではないだろうが まず これをあたかも第一の原理とするようになる。
逆に言うと 《オホタタ根子‐ミマキイリ日子》連関を 意識的に 上のように転回するのであって 実際 セヂ連関の中性化とともに或る種の性倒錯を生じ これとともに 《オホタタ根子‐ミマキイリ日子》連関を倒立させて むしろ オホタタ根子を スーパー日子(第一日子)としてのように・つまり そうは言わないかたちで祖霊として まつりあげることにもなる。倫理などとして固定的な観念としているのである。たしかに そのデモクラシは 観念にもなりうる。

  • つまり 死者でもある点において オホタタ根子と 日子(第一日子)の祖先とを 同一人格ないし祖神として これを スーパー日子なる霊もしくは原則的なセヂ連関とする。

実際 日子のはじめは 根子の中の優れた人だったのであり あるいはちょうど ローマ法王の教会制度(ないしそのような くにやしろ)を確立すると イエス・キリストをスーパー日子たる神の子と看做すようになるのと同じことになる。マルクスレーニンの場合も同じだということになる。オホタタ根子(また キリスト・イエス)は 人間であり そのヤシロの歴史的な出発点といったようなものとしての人びとの共同主観において 神の子と考えられたのである から――神の子であるかどうかを別として――そこには 一個の人間・オホタタ根子の中に ヤシロ資本主体として 《根子‐日子》連関の構造がそのまま 現実として共同主観されたことを物語っていたのだが このことは オモロ構造として いまだ人間にとって つねなる原共同主観であるように思われるのである。
またそれは そういう過程であり 同じくその人間的なオモイの内容として そこには 前史から後史への動態があり これも共同主観されたであろうと見るのであった。
いま 第四の展開例(中世封建市民のオモロ)など あるいはさらに キャピタリスムの側面を捨象してしまうと 上のように オホタタネコ共同主観の歴史的な展開の図式を考えることが出来るであろう。
(つづく→2006-10-26 - caguirofie061026)