caguirofie

哲学いろいろ

#33

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第四章 ゑけ あがる三日月や

第四のおもろ 祝祭から祝祭へ

わたしは 古事記では(また 日本書紀等では) 按司アマテラスの時代は 直接に反映されていないと考える。按司のばあいは まだもっぱらのアマテラスではなく スサノヲイスト・アマテラスとも言うべきS圏に密着したムラないし自由都市の社会科学主体である。これに関する記事は 少ないと思われる。
按司のゆるやかな――または 緊密な――インタムライスム連合の時代に このオモロ構造が動揺したという歴史。そしてその中でも ヘグリまたはミワのヤマトのヒミコを中心とする連合派の動きは すべて触れられていないと考える。
のちにカヅラキ派についたニギハヤヒ かれらが仕えていたトミ(ヘグリ)のナガスネビコが ヒミコの系譜ではないかと考える。または ミワの箸墓が ヒミコのものであるとすれば ミマキイリヒコの前のミワの按司政権が ヒミコやトヨの系譜であると。
ヘグリ・ヤマトも カヅラキ・ヤマトも 同じように 海を渡ってまずツクシにやって来た。そこで それぞれ落ち着くと まずヒミコの系譜が先にヤマトへ移った。このヘグリの按司政権に対して やがてカヅラキの系譜も ヤマトにやってきてカヅラキの地に同じく 同化して一個の按司政権を樹立した。

  • 以下 これまでの議論と同じように しかし ミマキイリヒコのカシハラ・デモクラシの想定という仮説を除いて むしろきわめて空想的な論議である。そのような可能性を考えるのである。また そうして歴史学的な事実を措定しようというのではなく オモロ構造の 基本的な展開を 類型的に 措定できればと思う。

やがて――かれらは 倭人と呼ばれた中国・江南からの渡来者であったろう または 朝鮮半島南部で この倭人を受け容れた韓人であったかも知れない。原日本人たちに大きな刺激となったであろう。また どういうわけか 互いにうちとけ合うのに 不都合はなかったと考えられる。つまり オモロ構造においてである。
やがて 生産物に余剰を生み 余剰の生産物じたいが 日常的になったところで 按司政権のもとのスサノヲ共同体が 共同体じたいを対象化し また おぼつかぐら核分裂の思想を持った。天は 諸共同体をおおうからである。単純に その形態の類推である。
ここで 渡来者の祖国――朝鮮半島の――の按司政権にも 核分裂のオモロが 生起し 日本の渡来者のくにに服属の要求をせまったかも知れない。イヅモあるいは イヅモとのちに呼ばれて伝承される或るくにが この要求をつきつけられ 戦争になるというとき これに従ったのかも知れない。もし このような事情もあったとするなら さらにこの日本での按司オモロの核分裂は 勢いを増していったかも知れない。
ともあれ はじめのマキョのあかぐちやオモロの構造に 動揺をきたした。いくらかのマキョの按司による統一という共同自治方式が 明らかに 対象化され 動揺をきたし 対外的な核分裂が始まろうとした。ヘグリは 西日本の各地域に連合政権のオモロを打ち合わせして行った。カヅラキは 独立派を選択した。
ところが 征服者(第三のスサノヲ以前の)がやってきたにせよ 来なかったにせよ イヅモ(象徴的に)では この動揺とは無縁であったと考えられる。あかぐちやと おぼつかぐらとの転倒から無縁であったと考えられる。表現じょう 《海原(それは 垂直的にオボツカグラ・天と通じる)の統治を任されても――言いかえると 原始心性の呪術宗教的な統治を任されても―― このオモロせぢ連関の倒錯を嫌って すなわち もっぱらのアマテラス者となって支配することを嫌って スサノヲは ひげが胸先に伸びるまで 泣きからしていた》というように。
ここで 徐々に 日本のくにぐにでは 国家なるオモロへの構造的な拡大が思われていったであろう。
ヘグリもカヅラキも 先住の原日本人との統一が要請され そのような共存形式のオモロがすすめられる。動揺とくすぶりと時に闘争の中に。ヤシロせぢ連関の基体は 男の女に対する関係であるから 原日本人の共同体との婚姻制作が取られることになる。ヤマツミの神を奉ずる原日本人スサノヲ共同体また ワタツミの神を奉ずるそれらとの融合政策である。あかがうちやオモロを基盤として 自分たち(ヘグリや カヅラキ)は 二ライカナイまたはオボツカグラの要因をになう者となって 全体のオモロ構造が拡大されて行った。もちろん国家オモロの形成への過程である。
ヒミコら連合派は もともとより または朝鮮との対抗じょう 中国との連携を求め これを進めた。そうして ヤマトの地では カヅラキと競合してゆくことになる。
カヅラキが勝ったと思われる。おぼつかぐらのタカマノハラは カヅラキが担ったと思われる。原日本人らがタカマノハラに奉じていた神は タカミムスヒの神または ヒトコトヌシであったと考えられる。このような表象と名称が与えられたものと思われる。タカマノハラなるカヅラキ・アマテラスは このヒトコトヌシのもとのスーパー按司となろうという勢いであった。ヒミコ連合派のくにぐにも このタカマノハラ・オモロを形成して各くにで スーパー按司なるアマテラス政権をかたちづくって行った。
ここから 日本全体の国家構想としてのオモロ形成が始められたのではないか。基本的に 良かれ悪しかれ 国譲りをするという・あるいは静かなる沈黙を守るというイヅモのオモロ姿勢が この形成にさらに新たなモメントをつけ加えたのではないか。それは オモロの垂直的な構造要因としてのヒトコトヌシなる力ではなく――それと同じように―― 人間的な横のセヂ連関としてのオホモノヌシがである。せぢの根源として表象されたものである。

  • この限りで モノは イデアであり それは コトとしての現実動態の中で 見えざる力として表象されたものであり ヒトコトヌシと同じである。コトもモノも 関係概念につながらないわけではなく コトが過程的であるのに対して モノは固定的であるというわけでもない。すべてのコトの概念として規定することは そのコトを固定的なモノとして見ているこことを表わし モノの概念でセヂ連関をとらえることは コトの中の一認識過程を表わしていないわけではない。

ヒトコトヌシの国家オモロが タカマノハラ(A圏)を第一位に置く限りで ヤシロ動態は 絶対主義的なまた停滞的な人びとの生活を用意し オホモノヌシの国家オモロは ほんとうはタカマノハラ要因が 生活の仮りのすがただとオモッタであろう。オホモノヌシのオモロは 形態的な外なるタカマノハラをどうでもよいと観念したであろう。ヒトコトヌシのオモロは オホモノヌシのオモロを包むようにして 普遍的なやしろ諸連関 アマテラス化したヤシロ資本主体スサノヲらによる共同自治を欠かすことはできないと考えた。
ここで 祝祭なる概念を人びとは 用意する。また 用意しなければならない。それは オイディプスが見出したように 《人間》なる概念である。按司アマテラスの核分裂オモロに動揺をきたしたことは 内部複合性=コンプレックスを意味する。それは ちょうど 男と女の関係の中にも問い求められ見出されるべき現実である。この人間が オホタタネコである。
スフィンクスの謎ではなく ゴルディオスの結び目( Gordian knot )を――だれもそれを解くことを果たせなかったが したがってむしろ 剣で――切断して 解いたのは アレクサンドロスであった。オイディプス・コンプレックスなるゴーディアン・ノット つまりスーパー按司時代の動揺しくすぶるオモロ構造を 内なるセヂ連関のむすぼりとして内なる剣で解いたのが オホタタネコである。そのかれの あるいはかれを取り巻く仲間の 共同主観である。アレクサンドロスは マケドニアから出て オイディプスの後裔なるテーベの都市を襲ったのだが また それは 外なる剣 形態的な国家オモロによるものであるが 世界帝国なるともあれ国際的なセヂ連関を用意して 人間(アンドロス)の防衛者(アレクソー)であると考えられたのである。

  • もっとも ゴルディオスは 小アジアの地・古代フリギアの王で かれが戦車の轅(ながえ)のくびきに結びつけた結び目は それを解く者は全アジアを支配するとの神託(オモロ)が出ていたのであるから そのようなかたちで ともあれ《事挙げ》の前に 《言上げ》共同主観がつちかわれていたとも見られることは 見逃せないのである。

ここでは 静かに オホタタネコが 立った。また そのような新しいオモロが 共同主観されたのである。
オホタタネコは ヤマトではなくカワチと関連があるとも言われ またヤマトの地のミワのミマキイリヒコと同じオモロ構造の中に捉えられている。タカマノハラとトヨアシハラ カヅラキ・アマテラスと原日本人スサノヲ ヒトコトヌシとオホモノヌシ おぼつかぐらと赤口や これらを アウフヘーベンしたのである。これが 新しい祝祭である。カシハラ・デモクラシと呼ばれた。
たしかに 《宗教が人間を創るのではなく 人間が宗教を創るのであ》(マルクス)り オモロは 即宗教ではないが 共同主観オモロを人びとは 動態の中で形成してゆく。それは マルクスの科学が オモロではないと言えないようにである。ところが このカシハラ・デモクラシは その言上げ(アマテラス語普遍理論化)が 後世に待たれたものの また その第二派生形態として国家確立という事挙げを経過するという歴史的進展を見たものの ヨーロッパの科学と相容れないものではない。日本人の成立は このような祝祭の中に過程されたと言っても――それは永久に 文献学的なまた考古学的な証拠を挙げることはむつかしいということを付け加えなくとも―― 学問からはずれるものではないと考える。
つまり これも 夢の中の・あるいは仮りのオモロなのである。しかも 夢を見た そのように出発したということは 現実なのである。それは オモロ構造の中で おぼつかぐら要因をめぐって展開されたとは言え あかぐちや基盤に立っているとするその限りで。そうでないと これは夢ではないか→いやそういうおまえが 夢の中の論理だ などと悪しき無限の自同律の中に人は入っていくであろう。
このあと マルクスの展望するように歴史が進んでゆくかどうか それは どうでもよいことである。人間が決めてゆくことである。いわゆる未来の共産社会が実現するかどうか その前夜祭的なオモロ これをわれわれは排除するのではなく いまの祝祭の動態的な継承の中にオモウべきなのである。
もし これと違って 後夜祭的なオモロがあるとすれば それは このカシハラ・デモクラシつまりオホタタネコ共同主観による出発 のあとの国家形態確立なる第二次仮象の祝祭をその人びとはオモッテいる。つまりわたしは ここで 次のような展望を日本の歴史に与えた。
このミマキイリヒコのミワ政権のあとに カハチ(ナニハ)のアマテラス(倭の五王) そしてふたたびオホタタネコ・デモクラシを継いだヲホドのミコ(アマテラス継体)のヤマト政権――第三のスサノヲなる征服者の動きがあったとしても 基本的なオモロ展開としては オホタタネコのそれを継いだか ミワの人びとがオホタタネコ・デモクラシをもってこれに譲歩したかだと思われる―― このヤマトないしアスカの地で やがて オホタタネコ・デモクラシなる大前提を舞台として 国家形態の事挙げが繰り広げられていく。そののちさらに このアマテラシテの家から臣(スサノヲ)籍へ降下した源氏や平氏(足利氏までがそれらである)が 新しいアマテラスとなった。室町時代も末期になると やがて戦国の世の中へ移り 一般スサノヲからアマテラスへアマアガリするオモロ構造の内部発展が始められた。
話は飛んで これら第三転ののち 明治維新なる第四転は ふたたび統一的な《アマテラシテ/アマテラス ‐ スサノヲ》連関 ナシオナリスム国家形態を復元した。次の第五転まで 古代市民的な第二転の派生形態たる《フヂハラ》オモロの最終形態である。
昭和戦後の第五転は いまだアマテラス語理論(憲法等の言上げ)的であれ あるいはまだ
密教的であれ はじめのオホタタネコ・デモクラシなるオモロが 自由に共同主観されることを復活させた。したがって 後夜祭のオモロは そうではなく 形態国家の事挙げを 第一の祝祭としてみることによるのだと。
しかし 祝祭が 外なる形態的なコトであるとしたなら あらゆるスサノヲがみな アマテラスとならなければ 始まらないし終わらないと言わなければならない。けれども この後夜祭のオモロをうたう人びとは すでに 聞こえ大君なる類型の人間 それとして内なるアマテラス化を果たしたスサノヲであると思う。ならば祝祭は いま現にここにある。わづかに 聞こえ大君なるセヂ連関の統領は――もしそれが存在するとするなら―― スサノヲの内なる心にあっても 形態的にしるしとして《山葛する》外なる制度においてはないであろう。
ゆえに 内なるオモロで 《ゑけ あがる辺のみづかわ》または 《ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて》と捉えたスサノヲは このオモロじたいを 《あかぐちやに依い憑いて》表現=疎外してゆくのではなく ゆえに 外なるセヂ連関の制度を 容易に再編成してゆくであろう。つまり そうするしか出来ないし それは 能力によって そうすることしか出来ないのである。祝祭とは この動態にこそある。
しかも 原始心性のまま 制度改革へと神懸かりしたように進むことは もはや危険だからと言わなくとも その原始心性は揚棄された なぜなら はじめのオホタタネコ・デモクラシが そのような静かなる英雄のヤシロ資本主体として立ったからである。人びとは 内へ向き変えられたのである。真理に対して謙虚になるという道が ふたたび よみがえって 用意された。わたしは ひとり得たりとして いばってこう言いたい。
このためには――はなはだ学問的な考証の裏付けが不備であれ――第三のスサノヲの受け容れの時の・その前後のオモロ構造発展の歴史を 指摘し素描して示す必要があると思われた。これは 謎解きではなくむしろ 新たなもうひとつの謎を提供したことになると思われる。
祭 / 政(まつりごと)のさ中 前夜祭・後夜祭といった オモロの主観内の時間複合の構造 これに関しては 一つに 《まつり(赤口や)‐まつりごと(おぼつかぐら)》連関が その大前提であり もう一つに 第一の祝祭をどこに見るかが問題である。
わたしたちは この大前提のオモロ構造が 社会形態的な国家として確立されたときをもってではなく ミマキイリヒコの・オホタタネコのカシハラ・デモクラシの確立(言いかえると 《人間の誕生》)に 第一の祝祭を置くという見かたを――あたりまえのごとくになるけれども――触れておきたかった。

(つづく→2006-10-21 - caguirofie061021)