caguirofie

哲学いろいろ

#40

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

付録 オホタタネコ・デモクラシの歴史的な展開

三 国家形態のアマクダリ(性倒錯の解放)

アメツチ(天土)はじめて発(ひら)けし時 タカマノハラに成れるカミの名は アメノミナカヌシのカミ。次に タカミムスヒのカミ 次にカミムスヒのカミ。この三柱のカミは みな独り神と成りまして 身を隠したまひき。
古事記 (岩波文庫) 上つ巻)

と オホタタネコ・デモクラシの第三の展開例において つまり 安定した国家形態の時期を迎えて 人びとは この展開形態じたいを オモロにして うたい始めた。
まずここで タカマノハラについて われわれとしては そのカミの名としては ヒトコトヌシを当てて通してよいと思う。つまりヒトコトヌシの語が概念として意味表示するところで タカマノハラ概念は一貫していると考えてよい。アメノミナカヌシ等々があったということを オモロ主体は むしろ頭の中でヒトコトヌシの想起をとおして うたっているとわれわれは考えてよいであろう。という内容を ともあれスーパー日子のオモロは 初めに歌い始める。そういう設定なのである。
ただそれだけなら まだタカマノハラ=A圏に在る日子は S圏=根子の中からそのおなり神を召し上げて 性関係をむすぶことをなしうる 言いかえると セヂ連関のヤシロ的な基本形式を むしろ普通に根子‐日子の連関に置きうるのである。ところが――その形態が 第二展開例であったが―― ここ第三例では はじめにタカマノハラに成れるカミガミを《独り神》であるとオモロした。そうオモロするように・つまり 根子‐日子のセヂ連関また性関係形式を 中性化しその意味で観念的に純粋概念とした。《あかぐちや‐おぼつ》連関のオモロから おぼつをタカマノハラと規定し これをアマテラス語化・中性化・純粋化したのである。

  • わたしはいま アメノミナカヌシら三柱あるいは次のたとえばクニノトコタチのカミらが ここで 《独り神》であるのだが その意味内容にはこだわろうとは思わない。それらは 《神世七代》の最後の三代 つまりオホトノヂのカミ(男)〔=オモダル=イザナキ〕およびオホトノベのカミ(女)〔=アヤカシコネイザナミ〕が人間であるのを除いて 一般に自然的な現象等の概念であるが これが 比喩化され人物化され 《独り神》であってなお《身を隠した》などと規定されることに注目すれば ここでは 足りる。
  • この点 あるいは ここで古事記に 編者の意志・意図つまり固有のオモロが存在したであろうと見る点については 大野晋:《記紀創世神話の構成》(誌《文学》1965・8)を参照されたい。

整理して言いかえると はじめに《タカマノハラ》の設定があって ここに《独り神》が成ったという点・つまり 一歩すすんで――性の存在しない視点ではなく――中性のしかも中性の人格のような主体に言い及んでいる点に注目すべきであろう。これが 性の揚棄ではなく 性の倒錯であると考える。

  • とにかくにせよ 身内の兄弟姉妹にしか信頼を置けないというようなオナリ‐ヱケリ(ヒメヒコ)連関なり あるいは 処女にしかやはり信頼を築けないというセヂ連関の形式なり また いづれか独り聖なる存在を模範として想定しなければ やはりセヂ関係を結べないといったオモロなり すべて 性関係にすでに倒錯が生じている。同じように 《独り神》のごとく中性を設定するということ つまり 中性を想定することじたいが 倒錯の始まりだと思う。

もっとも それでも これは 性の存在しないオホタタネコ共同主観の観念的なアマアガリ(アマテラス語化)形態である。なんらかの形で オホタタネコ・デモクラシに基こうとしている。
しかも 逸脱したとわれわれは考える。アマアガリのしるし これを頭の中に植えつけることによって 性関係かつセヂ連関を 観念共同性のうちに結び この習慣としての観念の共同水路を 道徳とするやり方である。

  • アマアガリのしるし これは いったい何であるだろう。何だとお思いだろうか。おそらく わたしには推し測られる限りでは この水路この運河 このネットワークに 頭を開放しそこに意識の流れを交わらせ 《日本》というオモロ人であると手形を切りあっていることではないか。――残念ながら わたしは いちども おこなったことがない。すべて推測である。

このオモロ形式を外れる人は 人でなしだとするやり方である。人は容易に このタカマノハラ・デモクラシが 観念の暴力であることに気づくであろう。
これが 日本的な和だというものの実態である。これは 性の存在しないオホタタネコ・デモクラシをよく捉えなかったからではなく 性の存在にしがみついた結果 このようなタカマノハラ・オモロなる共同観念によって この世の性関係を肯定したのである。自然本性においてではなく 観念の共同性によって 性関係を肯定したのである。このヤシロ共同の暗黙の(つまり黙契の)水路をとおすということ とおしたあとは まったくの自由であるということ。これは 性倒錯である。性関係がねじれている。

  • いまは 古事記の最初の書き出しについて捉えた結果 その前提とするところのオモロの枠組みにかんして 批判している。 

この《独り神》なる中性概念との観念的な婚姻を タカマノハラ=A圏を介して オモロするなら 言いかえると この踏み絵=入社式を通過するなら あとは何をしてもよいという共同自治のそういう方式の問題である。セヂ連関は ヤシロロジの全体にかかわって スサノヲ市民の生活動態である。
ところが タカマノハラ・ヒトコトヌシは カミである。オホタタネコがこれを カミと思わなかったとは思わない。オホタタネコがカミの子であるなら ヒトコトヌシは父なるカミなのであって 人は父なる神の想起・父なる神を思うことによって 動態的なオホモノヌシの霊的なセヂ連関を推進する。つまり ヤシロ資本推進力の問題である。つまり ヤシロ資本主体なる個人がひとりで ヤシロ資本形成をすべて取り扱うというのでないなら この推進力の存在を――ことさら言う必要はないであろうが―― 無視することは出来ない。
だから タカマノハラのはじめの想定を無下に否定することは出来ない。しかも そこにおける独り神の想定は 性関係の倒錯 セヂ連関の中性化を意味させていた。オホタタネコ共同主観は そこに性が存在しないという生きた視点であるのに これを 観念共同化のために 《独り神》のオモロによって固定したのであろう。
日本書紀の天地の初めの章では 次のごとく言っている。

・・・時に アメツチの中に一つの物生(な)れり。かたち葦芽(あしかび)の如し。すなはちカミとなる。クニノトコタチのミコトとまうす。・・・乾(あめ)の道 独り化(な)す。このゆゑに この純男(をとこのかぎり)を成せり。
日本書紀〈1〉 (岩波文庫) 巻第一)

《乾道》は 坤道の対(つい)で それぞれ 陽と陰。また 日子と根子。天地開闢のはじめ 陽気のみが独り萌え出て来た。だから全く陰気を受けない純粋な男性であったというのである。

  • 同じくここでも 中国の諸々のオモロ思想の影響のみを見ることは できない。日本人の固有のオモロの存在をまったく否定することは 出来ないであろう。大野晋:前掲論稿を参照。また 瑣末なことがらをさも大きなものとして扱っているとの批判はあたらないであろう。

それとも タカマノハラにおいて カミがカミを生んだというオモロを人はここに あてはめて読むであろうか。この現人神の思想をここに読むであろうか。

  • 《カミ》と言いつつ しかし 《乾の道〔が独り化す〕》であるとかまた《純男》と言っていることとかにも誤解があってはならない。

それとも 現人神のオモロの時代は まったくの過去であって 現代のわれわれの歴史には無関係と言うであろうか。そうであるかも知れない。いまの天皇昭和天皇)が 《紐帯》=A(日子)‐S(根子)連関の信頼関係は アキツカミ(現人神)などの神話オモロによって形成されるのではないと言った(いわゆる人間宣言)ときから 日本人の歴史は始まったと言うべきであるのだろうか。
スーパー日子のオモロ――実際には大タタ根子の観念的なアマテラス語化の共同――が 問題なのではないだろうか。それが 《タカマノハラにはじめに成れる独り神》の想定であり そのようにセヂ連関を・つまりもっと具体的に性関係を とらえて認識するデモクラシの一形態なのであり そのような観念の運河なのである。
わたしは 日本人にあって ブンレツ質・ソウウツ質・てんかん質が もし異常をきたし 異常として規定(これは しばしば否定である)されてしまうのは すべてここから発していると思っている。国家形態が実態であるぶんだけ 諸外国でも同じようなのだと考える。精神分析学は これを まさに性関係の問題に――無意識なる概念の設定の問題に―― 多かれ少なかれ帰したのであり いわゆるマルクシスムは このヤシロのA-S分離連関形態を 社会階級関係の問題だと分析する(われわれの想定した第二の展開例)のである。わたしたちは――あたかもマルクスとともに(これは 言う必要がないかも)―― 自己認識・自己還帰・自己到来 つまり 性として存在するわたしの性は存在しないオホタタネコ・デモクラシ視点の問題であると考えるのである。

  • いわゆる後期マルクスは この方法の一手法にすすんだのであり われわれは同じ方法で別の手法によると言った。

言いかえると これは アンテ・フェストゥムでも ポスト・フェストゥムでもなく また停滞的な(つまり ヤシロロジ次元とかかわらない・または逆に ヤシロロジ次元とタカマノハラ概念においてそのままかかわる)イントラ・フェストゥム(まつりごとのさなか)でもなく 動態的な祝祭のさなかとしての自己の問題だと言ったのである。オホタタネコ視点は そのように認識すべきである。
自己は 変化し死ぬべき存在であり ヤシロ資本推進力は 動かず不可死的な存在であるかも知れない。愛が それである。そのような根源的な力である愛は この世のものではないかも知れない。ところが タカマノハラ(ヒトコトヌシ)・デモクラシは たとい小部分であっても この不可死的・不可変的な力の存在に触れ得たのである。オホタタネコ・デモクラシは 原理的に 人がこの力を分有すると見出して 出発した。ヒトコトヌシの真理と言ってもよいし オホモノヌシの霊的な力であると言ってもよい。精神分析学とマルクシスムは それぞれの手法と分野で この力を分析し一個のアマテラス語理論としたのである。
ところが これらの学問の言うなれば理論体系が確立される以前に 人は確かに 見えざる推進力をオモロして来ている。言いかえると 分析的な普遍アマテラス語理論による知解と その思惟とは ちがう。知解の集大成の無いところでもこの力を人びとは思っている。セヂ連関が 前史的であれ後史的であれ 人びとの日常の現実でないことはなく 世界は 愛ということばを持つことができた。自己還帰ということが この愛の力とかんけいするものであろうと。
このとき人は 新しい異なった言語の人びとを受け容れようと欲して 大タタ根子の共同主観に立ったのである。立っていたことを再認識し対象化したのである。愛は この世のものではなく それが――もし存在するなら しかし――存在するとおりには思惟され得ず 思惟するとおりには表現し得ないと 基本的に知解し思ったのである。それに対して タカマノハラ・デモクラシのほうは これを=この愛を この世でただちに 形態のかたちでまた観念的に 実現しようと欲したのである。
あるいは逆に この世のセヂ連関態を一個の全体的な鏡としようと欲してのように ヒトコトヌシのオモロで覆いをかけたのである。つまり 愛を 観念共同的なこの覆いとしたのである。
つまり 観念の運河をそのように 覆いをかけつつ 掘り進んでのように セヂ連関を形成して行こうと考えたのである。たとい小部分であっても このヤシロ資本推進力に触れ得たからである。その手段に 国家オモロを形態的にも確立するという離れ業をおこなった。国家形態の確立以後 このタカマノハラ・デモクラシなる行きかたを 保守しなければならなくなった。推進力のこの地上での具体的な推進主体であると日子たちは 自らの存在を自負したからである。

  • マルクスも プロレタリアが 新しいその主体になれと欲した。あるいは これは いわゆる初期マルクスであって 後期マルクスマルクスだとする論者は 経済学的な手法で このオモロ構造の鏡(その移り変わり)を分析してゆくのが 正解だと考える。あるいは 同じ手法で哲学的に この鏡の現実に対して 批判的に自己了解していくのが そうだと。
  • しかし マルクスは これら初期および後期のそれぞれオモロのアマテラス語理論体系の中にはいない。全体のオモロを 動態的に形成して進むその生活の過程にある。鏡をとおして愛を見出しつつ この愛によって 生き動き存在し 敵をも愛しつつ すすむその過程にある。

このオホタタネコ共同主観の第三展開例に 性倒錯 セヂ連関の観念(幻想)共同化が 生じた。

  • いわゆるマルクシストは 第二展開例に立って この第三の展開例を分析する。だから 鏡そのものを分析するのである。初期マルクスは――そのオモロ理論ではなく その人は―― 第三の展開例をも見ていたと考える。見うる地点にいたと考える。それは 鏡そのものを見るというのではなく 鏡は鏡 つまり仮りのものであるとして 初期・後期をつうじて かれのオモロに現われているように 性倒錯の鏡をのり超えて 後史に立ったと思われる。
  • 後史に立って 自己を押し進めた そのために分析した しかも鏡をとおしてむしろオホタタネコの見えざる原共同主観・セヂ連関をとらえ思っていたと考える。

したがって愛が 現実的なセヂ連関における力なのである。
したがって 自己還帰は はじめのオホタタネコ・デモクラシのよみがえりとともに この愛の問い求め・セヂ連関の動態にあるというのが 結論なのであるが これには 前史と後史があるというのが われわれのささやかな主張である。タカマノハラ・デモクラシが いまに・つまり いまだに 前史の母斑の世界なのであり そうではなく オホタタネコ共同主観は 後史に立って この前史の世界に――あの国譲りをして――寄留しているというのが いまの現実の動態であるにほかならない。
だから 表現上 すでに 国家形態の終焉ということを言いうると思う。また 言わなければならない。
国家形態の確立を人間の手によって始めたのなら この形態移行(すなわち アマアガリさせたのだから アマクダリさせる再編成)を人間の手によっておこなうことが可能であろう。ヤシロ資本推進力によってオホタタネコ・デモクラシを始めたのなら この愛によって歴史を相続していかなければならない。われわれの自己がそのまま愛なのではない。愛を分有するゆえ 後史のも その実際のあり方としては 前史に寄留している。精神は 正当にも健全に 滞留している。愛を分有するゆえ タカマノハラの観念的な愛(セヂ連関における性倒錯)を排していく。弱い者の国譲りを保持しつつも ただ沈黙しているわけには行かない。
新しくやってきた第三のスサノヲ あるいはかれらのオモロを先取りした原日本人なる人びと これらの人びとは お客さん意識を持って――その意識によれば 観念的に言ってタカマノハラ=ヒトコトヌシが主体であって 人はその客体であると思い込んだことによって―― 基本的な根子(市民)の存在のままでは自己が不安であると考え もっぱらの日子(公民)となることを欲し 自分の力でアマアガリして行こうとする。これらの人びとに オホタタネコらは その落ち着くまでの時間を与え そのしるしに 国譲りをなした。
もっぱらの日子たちは その自分たちだけ独立するかのような・ヤシロから分立するアマテラス圏を構築してしまった。現代では このアマテラス圏をアマクダリさせることが 形態的なヤシロロジとしての実践(愛)であるが この地上的な愛が カミの愛ではないとしたなら 自己還帰し後史に立って日から日へ変えられつつ 愛を分有して もっぱらの日子たち・その人間をわれわれは愛しなければならない。かれらの内なるタカマノハラ・デモクラシのオモロを 愛のセヂ連関において アマクダリさせることを欲し むしろ祈らなければならない。
この弱さを誇らなければならない。これが オホタタネコ共同主観であり それは 日から日へ歩む動態でしかありえない。倒錯した性関係をわれわれは この方程式で変えることを欲して行く。
これは 男の女に対する関係の現実動態である。これまでの学問を この見地に立って新しく用いることができる。われわれも少々誇るなら これをルネサンスと呼ぶのである。ただ この復活も タカマノハラ・デモクラシがすでに第一日子の即位継承の儀式において観念的にであれ 形式としては保持したものなのである。この現実を見きわめて行かねばならないが 後史に立った人びとにこれが 基本的に容易であることは ひを見るより明らかである。誰も自己を欺くことはで出来っこないからである。これが 男の女に対する関係なのである。

  • ただ このセヂ連関があらたに復活したあと 前よりもっとひどい前史の母斑の世界・その性倒錯の場に後退する人びともいると言われた。

われわれは 弱さを誇らねばならない。
(つづく→2006-10-28 - caguirofie061028)