caguirofie

哲学いろいろ

#113

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第三章 日本人にとってのキリスト史観

第六節 主観という自己の書物

こんなことを書くのは あなたたちに恥をかかせるつもりではなく 愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストにみちびく教師があなたたちに一万人いたとしても 父親が大勢いるわけではないでしょう。福音をとおして キリスト・イエスにおいてあなたたちを産んだのは このわたしです。
(コリント前書4:14−15)

使徒パウロは 神の言葉を預かって 人間の言葉で記します。

わたしたちは またもや自己推薦をしようとしているのでしょうか。それとも ある人びとのように あなたたちにあてた あるいはあなたたちからの推薦状が わたしたちに必要なのでしょうか。わたしたちの推薦状は あなたたち自身です。それは わたしたちの心に書かれており すべての人びとから知られ 読まれています。

  • たしかに 人間が一冊の書物だ。

あなたたちは キリストがわたしたちを使ってお書きになった手紙として公けにされています。墨ではなく《生ける神》の霊によって石の板ではなく血のかよった心の板に 書き付けられた手紙です。
(コリント後書3:1−3)

さらに続けて

わたしたちは キリストのおかげでこのような確信を神の前で抱いています。もちろん 独力で何かを行なえるなどと思う資格が 自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに 新しい契約に仕える資格 文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが 霊は生かします。
(同上3:4−6)

さらに 第一のアダムの時代(律法・アマテラス語範型・人間の理論と実践)を 第二のアダムをとおして古きものと見ることによって 第三のアダムの時代への移行を 神の言葉というように 約束します。

ところで 石に刻まれた文字(頭に記された観念)に基づいて死に仕える務め〔滅私奉公もしくは 滅公奉私(=会社)〕が栄光を帯びていて モーセ(日本国株式会社社長)の顔に輝いていた一時的な栄光のために イスラエルの人びとがかれの顔を見つめ得ないほどであったとすれば 霊に仕える務めは なおさらのこと 栄光を帯びているはづではないでしょうか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば 人を正しい者とする務めは なおさらのこと 栄光に満ちあふれているのです。そして かつて栄光を与えられたものも このばあい はるかに優れた栄光のために 栄光がなくなっています。なぜなら 消え去るべきものでさえ栄光を帯びていたのなら 永続するものは なおさらのこと 栄光に包まれているはづだからです。
このような希望を抱いているので わたしたちはモーセと違って確信に満ちあふれています。そして モーセが消え去って行くものの最後をイスラエルの人びとに見られまいとして 自分の顔に蔽いをかけたようなことはしません。この蔽いは除かれずにかかったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため 今日に至るまでモーセの書(ムライスムの心)が読まれるときは いつでもかれらの心には蔽いがかかっています。しかし かれらが主(心のやしろ)の方に向き直れば その蔽いは取り去られます。ここで言う主とは 聖霊のことですが 主の霊のあるところに自由があります。わたしたちは皆 顔の蔽いを除かれて 鏡のように主の栄光を映し出しながら 主と同じ姿に作り替えられ ますます栄光を帯びたものとなります。これは 主の霊の働きによることです。
(コリント後書3:7−18)

最後の一節すなわち 別様の訳文で《私たちは顔蔽いなくして 主の栄光を鏡に映すように見つつ 栄光から栄光へ あたかも主の霊によってのように 同じ似像に変えられるであろう》は すでにたびたび引用したところです。《栄光から栄光( 'απο δοξσ εισ δοξαν )
》とは 内なる人において《前史から本史へ》あるいは 人間的な尺度で言って 《共同主観から共同主観へ》もしくは 《共同主観定立の時代から 共同主観自由の時代へ》 そしてもう一度元に戻って 同じ神の似像においてながら そのわたしたちを《神の子らとならしめる栄光から かれに似させるであろう栄光へ》 だから 《男は 人は 神の似像であり 栄光であるから 頭を蔽ってはならない》ゆえ《顔蔽いなくして》 日から日へ進む人に 《暗いかたちから明るいかたちへ移り行くこと》が生起すること すなわち 《不敬虔から義とされるとき 醜いかたちから美しいかたちへ変えられる》 つまり《創造の栄光から義認の栄光へ》 《信仰の栄光から直視の栄光へ》と解されることです。(三位一体論15・8〔14〕)。別の使徒が 《私たちは神の真の御姿を見るであろう》(ヨハネ第一書3:2)と説いたゆえ。
われわれは この神秘を 現実であると強弁するのではなく 人間の理性によって 鏡をとおしてしかもあの謎において その像を見祀るのです。この観想と観想する主体である神の似像とそれによる行為との結婚 これを人間の現実と言うのです。したがって この現実が 現実の現実すなわち 神の国の現実によって裏打ちされていないとするなら それは空しいものとなるであろうと説くのです。(理論・科学・芸術等みな このことが それらの一つの評価の基準となっていると考えられるなら その文体は 史観にほかならず 史観という主観は 人間という一個の書物であるにほかならないと考えられ そのような時代 つまりこれが共同主観=常識となる時代が 来たるべき時代だと言います。ここに人間の自由があると)。
さらに次につづく文章は わたしたちは ある意味で事後的に つまりその時々の経験を振り返って それらを一連の過程として 読むべきかと思います。

こういうわけで わたしたちは 神のあわれみによって この務めをゆだねられているのですから 落胆はしません。かえって 卑劣な隠れた行ないを捨て ずる賢い生き方はせず 神の言葉を曲げず 真理を明らかにして 神の前で自分自身をすべての人の良心の判断にゆだねます。わたしたちの告げる福音に蔽いがかかっているとするなら それは 滅びの道をたどっている人びとにとって蔽いがかかっているのです。《この世の神》が 信じようとはしないこの人びとの心の目をくらまし 神の似像であるキリストの栄光を告げる熟インの光が見えないようにしたのです。わたしたちは 自分自身のことではなく イエス・キリストが主であると告げ知らせています。わたしち自身は イエスのためにあなたたちに仕える者なのです。《闇から光が輝き出るように》と命じられた神は わたしたちの心の内に輝いて イエス・キリストの顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
ところで わたしたちは このような宝を土でできた入れ物(身体)に納めていますが それは この並はずれて偉大な力が神のものであって わたしたちから出たものでないことが明らかになるためです。わたしたちはあらゆる面で苦しめられていますが 行き詰まりません。途方に暮れますが 失望しません。虐げられますが 見捨てられません。打ち倒されますが 滅ぼされません。わたしたちは いつもイエスの死の苦しみを体にまとっています。それは イエスの命がこの体に現われるためです。わたしたちは生きている間 絶えずイエスのために死ぬ目に遭っているのですが それは わたしたちの死ぬはづの身にイエスの命が現われるためなのです。こうして わたしたちの内には死が働き あなたたちの内には命が働いていることになります。

わたしは信じた。それで わたしは語った。
詩編116:10)

と聖書に書いてあるとおり それと同じ信仰の霊を持っているので わたしたちも信じており それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させた神が イエスとともにわたしたちをも復活させ あなたたちと一緒にみ前に立たせてくださると わたしたちは知っています。すべてこれらのことは あなたたちのためであり 多くの人びとが豊かに恵みを受け 感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。
ですから わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの外見は衰えていくとしても わたしたちの内面は日々 新たにされていきます。・・・わたしたちは見えるものではなく 見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが 見えないものは永遠に存続するからです。
(コリント後書4:1−18)

この言葉は 神にのみ属することであるとも言わなければなりませんが 同じくこれらの言葉も わが身体に記されることを われわれは願い欲しています。しかし これらの内なる人の秘蹟 外なる人の模範も すべて主観のうちにこそ過程されることであり 人間と人間との関係 そのあいだに見られることがらであり このように記される書物(身体)は心の眼で読まれることによって 史観として生きるのであり 言葉や文字そのもの あるいは社会制度の書き替えといった意味での外的な行動に 用い尽くされてはならない。むしろ 書かれた文字・語られた言葉 あるいは大きなものであれ小さなものであれ 書き替えらた社会制度の鏡(象徴) これらが 肉において秘蹟と模範であるお方 さらにはこのわれわれ自身に 集められるようにして受け取られるものなのです。集められるようにして受け取ることによって 内的な史観からの外的な言葉ないし行為が発せられ展開されるのです。
われわれは このように 後ろ向きにこそ(あるいは 受動的にさえして) 前進します。《神に栄光を帰す》ことこそが 神の国の歴史つまり人間の歴史なのです。かく言うわれわれが その当の者ではなくとも われわれはこれを 形相において 保持することが大切です。また ここから 時の充満とともに 社会制度の再編成へとも向かうと考えます。

(つづく→2007-09-06 - caguirofie070906)