caguirofie

哲学いろいろ

#114

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第三章 日本人にとってのキリスト史観

第七節a わたしの墜落

ですから ともあれ 律法・アマテラス語・人間の理論と実践が あの観想と行為に先行するというわけではありません。また それらは 人間の有ではあっても ほんとうには人間の規範であるとか存在の根拠であるとかでもない。むしろ偶有的な経験世界であります。そしてしかも これらが全体として 大きなものとして 神の言葉の証言となるわけです。
《神の言葉》は 肉の目に見えず 永遠であり そのキリストの派遣は 大いなる神のみこころを告知するためでありました。しかも《人間の言葉》は その一音節を発するごとに あるいはその行為は 一歩を踏み出すごとに 時間的・経験的に為され知られるわけですから 神の言葉〔の派遣〕の証言とそれらがなるということは 時間の間隔をともなって 行為と行為とのあいだに齟齬を生じるかたちで 人間の理性によって観想されることになります。
このとき われわれの存在〔とその過程〕は あたかも かいこが繭を紡ぐがごとく その主観はこれら構造的な神の国〔と地上の国〕の中を通り このことによって一見 わたしたちは そのように言うとすれば あの顔蔽いをむしろ被っているではないかと見られるかも知れません。しかし ことは反対です。そのようであるからこそ その行為もしくは一般に生活日常の人間関係・社会関係は その顔蔽いを取り除いたかたちで 互いに愛の主体として かれを自己を愛するという負債しか他に負うものがないというようにして 神の国を告知しうるまでの史観となるのです。


たとえば 律法は《むさぼるな》と説きます。またアマテラス語理論ないし法律は キャピタリスムの規則を作り これのもとに 《むさぼり》かそうでないかの一定の基準を共同主観しつつまた判断を重ねつつ 倫理(経済)的な行為をおこないます。この《むさぼり》の規範(禁止と自在と)にのっとって 人間が生活するとき 罪を自覚し ますます人間的となる また反面で 《律法が〈むさぼるな〉と言わなかったなら わたしは〈むさぼり〉なる罪を知らなかった》・行なわなかったというほどに 自己のもとに《禁止》の違反を知って その虚偽を自覚するようになります。この律法が 《顔蔽い》であります。
そこで 神の律法は――つまり アマテラス語規範の知解行為(それは 共同主観から 観念共同になりうる)ではなく 神の愛 やしろの〔至聖所の奥なる〕愛は―― 欠陥を憎み人を愛せ また 敵を愛せ と記します。顔蔽いを取り除いて 主の栄光を鏡に映すように見つつ あたかも主の霊によってのように 自己が その主観全体が 日から日へ変えられてのように 霊的な共同主観に立つことをおしえました。律法による《禁止と自在》 昼と夜 実体語と空体語 あるいは労働の二重性を必然的に作り出すキャピタリスム原理 それらの栄光と虚偽 ここには 人間の現実はないと たしかにもっとも正しく行なって生きるアマテラス者でさえ 悟るようになり そのような心を持ったスサノヲイストらの需めに応じて つまりそのような時の充満が キリストの出現を待ち望み かれは派遣された。
《男は 人は 神の似像であり栄光であるから 頭に蔽いを被ってはならぬ》と だから 共同主観されたのです。これが この共同主観現実が 律法を成就させるのです。なんなら人間は 時間的な存在でありその三行為能力のあいだに齟齬を生じさせていますから この神の愛も 一つの蔽いであるかも知れません。つまり《わたしは愛するなら存在する》というように 《コギト エルゴ スム》という知解行為単独的な顔蔽いに代わる 神の律法であるかも知れません。ただ 同じく人間は時間的存在であり その行為に時間的な間隔をもって知解し愛している(つまり そのような時間間隔という罪を免れない)のでありながら 《わたしは愛するなら存在する》という神の律法を しもべの貌としては・つまり時間的存在としては 《わたしはあやまつなら存在する》として 至聖所の前に立ってその良心を行なうのです。
ここで原理的には 罪が取り除かれると言われます。また 古き罪の身体が滅ぼされるなら 霊的な共同主観に・その神のみ手に すく(掬)われると示された。このやしろの安全な望楼に人は 共同主観者として立つことが 約束されたのです。ここで 顔蔽いは取り除かれあたかもすでにと言うように《〔神〕直視の栄光》へ 主観の全体が 変えられていくのです。


時間の間隔をともなった行為関係〔事実のあいだ〕の齟齬(罪)を生じたかたちの中にあることより 《いつもイエスの死の苦しみまでも体にまとい それはイエスの命がこの体に現われるためである》というほどに 史観は 《苦しめられるが 行き詰まらず 途方に暮れるが 失望せず 虐げられるが 見捨てられず 打ち倒されるが 滅ぼされずに》人間の言葉として生きるのです。《わたしたちの死ぬはづの身にイエスのいのちが現われるためなのです》。この神の国の そこに自由に隷属する奴隷となることが 人間の自由と知ったからです。いやむしろ この道がすでにただ与えられていたことを知っただけのことに過ぎません。
《わたしたちの内にはいのちが働いていることになる》その史観が 道として与えられていた これを知ったからです。そうすれば 《主イエスを復活させた神が イエスとともにわたしたちをも復活させ あなたたちと一緒にみ前に立たせてくださると わたしたちは知っています》。これを――人間的な論法で言えば―― 無意識の前提として(常識として)生きる時代が その生涯の期間内に 到来すると信じたのです。
狂った者のように あるいはむしろずる賢い考え方のように言いますが この時間(時代)は いわゆる《日本人》がむしろもっとも近いと悟ったからです。この成否は 神が決めてくださることです。

  • このあたり パウロやその信仰の純粋性の立ち場に片寄って述べているように思う。(20070906)

この観想を ただしいと見る人も これを 言葉として掲げ 前向きに善処するというよりも むしろ後向きに 自己の経験的な行為事実を振り返ることによって そこに神の言葉(神の力・知恵)〔の証言〕が見られたとするなら あの回転をとおして(心が内へ向き変えられるのです) この道に立ち戻るというように 自己の史観およびインタスサノヲイスムとしての社会的な行為へ 向き直りつつ進むようになると考えることがらです。
(つづく→2007-09-07 - caguirofie