caguirofie

哲学いろいろ

#163

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第八章 したがって人間は三一性主体である

〔第二十二章 42〕
この三つの能力は人間のばあいのように一つの人格の中にあるとき 誰かが私たちに 《この記憶 知解 愛 の三つは私の有(もの)であるが それら自身の有ではない。それらがなすものはそれら自身のためになすのではなく 私のためになすのである。然り 私がそれらをとおしてなすのである》と言い得る。なぜなら 私が記憶によって想起し 知解によって知解し 愛によって愛するからである。私が思惟の眼差しを私の記憶に向け かくして 私が知っているものを 私の心において語り出し そして真実の言葉が私の知識から生まれるとき 私の知識と言葉は両方とも私の有である。私が 知るのである。私が 知っているものを私の心において語るのである。私が 私の記憶において すでに知解し 私がすでに或るものを愛しているということを思惟によって確認するとき――知解と愛は私がそれを思惟する前にそこに存在していたのである―― そのとき 私は私の記憶において私の知解と私の愛を見出す。それらによって 私が 知解し愛するのであって 知解が知解し 愛が愛するのではない。同じように 思惟が想起し 記憶の中に置かれているものに還帰しようとして それを知解して見 そして内的に語り出そうとするとき 私の記憶によって確認し 私の意志によって意志するのであって 思惟の記憶や意志がそうするのではない。
(三位一体論 15・22)

人間は 人間も 或るかたちで社会的な行為において 条件反射のような応答を為す。殊に日本人のばあい ムライスムなる律法和を重んじてか つまり個人的に真実を語ることによって出る杭が打たれることを恐れてか つまり虚偽の指摘を恐れてか つまり虚偽はどっちみち明らかになるのだが それがあからさまにされることを嫌ってか そうするようである。この条件反射の行動においても 人間の内密な言葉あるいは意志が失われているというのではない。ただ 条件に応じて(というよりは ムライスムの場が出来ていればむしろ無条件に)反射する応答において――それは相手の感情を傷つけたくないという情念によってであれ―― 或る種の虚言を語り この虚言が 相手によってか あるいは第三者によってか いづれの場合でも欺かれるというばあい それによって虚偽が発生する。

  • 虚言は 欺かれるなら 虚偽となる。
  • 感情を傷つけたくないという婉曲的な言い回しと 虚偽になるべき虚言を言うこととは 別である。

このように 条件反射の応対においては その言葉(行動)がもし虚偽となってしまう場合には けっきょく その行為は 人間が記憶や知解や愛によってそうするというのではなく その《思惟の記憶や意志がそうする(ムライスムなる見えざる理論が そうする)》結果をみちびいている。あとで笑って済ませること あるいはそれがそのような前提をもった者(日本人)どうしの間では 問題とならないこともありうるが 《小さなものを軽蔑する人は 次第に堕落する》(集会の書19:1)と言われるように この虚偽の悲惨には 《はじめから直ちにとびこむのではなく 蛇が這って進むように》(三位一体論12・10〔15〕) 堕ち込み 一見 個人主義的なと見えるほどの無関心をかたちづくり また 上(権威ないし権力)からの号令があってはじめてその権威関係をめぐる社会的な水路をとおってのように 虚偽を虚偽として認める。(はじめて そうであったと認め合う)。あるいは 虚偽でない心を表わしてそれを行なうという結果にもなるのだが これは 史観の観念的な客観化というほどに 閉じこもった共同主観の過程一般である。
言いかえると そのようにつねに あのアマテラス客観語の顔蔽いを被った史観つまりそのような生である。しかしこれは なお大局的に見て虚偽であり悲惨である。それによって あたかも人間に望まれる最高の共同自治が出来上がっていたとしても すべて最大の悲惨である。なぜなら ただアマテラス〔語をあやつる立ち場に立ってはじめてそのアマテラス〕者が 顔蔽いを取り除かれた神の似像たる人間であるということにしかならないから。

  • 《アジア的社会体系では 王のみが人間である》という趣旨のことが すでに言われているとおりに。

これは 歴史的な伝統であると言われても 国家成立以後のそれにしか過ぎず また文化(神の畑である史観を耕す)としての伝統ではありえない。しかも このようなやしろの情況にこそむしろ キリスト史観が問い求められ見出しうると言うのは 神の畑であり宮である八重垣が 隠れたところでは 脈々と つまり歴史的な伝統として 息づいていると言われなければならないからである。
そうでなければ この情況下の人間は あたかも別種の人間となってしまう。(日本人は 人類からはずされてしまう)。また 〔開かれた〕ムライスムなるやしろの関係形態は 互いに身体を離れてはアマアガリしないという史観にとって その肥えた土壌を為しているとこそ逆に言うべきである。ここにこそ 史観の観想は 〔関係〕行為として つまり愛として 生かされると思われる。鏡の現実は そのようであるとわたしたちは考える。しかしこの議論は すでに第三部までに行なった事柄である。いまは論議しない。
なお 人間が《わたし》の記憶や知解や愛によってではなく 《思惟の記憶や意志が そう行動する》というのは わたしが思いやるのではなく 思いやりを持たなければいけないという思惟の記憶や意志がそうすること わたしが人と察し合うのではなく 察し合いが大切だという観念がそうすることである。これは 《思いやりや察し合いが大事なのだよ》と説くことを あたかも自己の主観とする(つまり 歪められた主観である)あのアマテラス予備軍が存在することに原因している。職業を問わず このアマテラス予備軍の職務は 一定程度に担われる慣習がある。
この説教による観念に従うスサノヲ者は かれらに或るあわれみの職務を引き受けてのように従うのである。少なくとも 従うという振りをする。(これは 無意識のうちにも 振りをするかたちとなっていることが 多い)。従来の《資本(愛)主義》とは このアマテラス予備軍主導による愛つまり共同自治そして生産である。このアマテラス予備軍の社会的な解放によって 構造的な《やしろ主義》による《愛(社会資本)主義》が 可能となる。それは 上のスサノヲ者のあわれみを その予備軍の人びとの欠陥を憎み(憎んでいるということの史観を 知解し認識しあるいは表現し)その人びとを愛するというあわれみに さらに変えてである。さわらぬ神にたたり無しとして かれらをたてまつり 放っておくというわれみではない。
つづいて

さらに 私の愛も 欲求すべきもの 回避すべきものを想起し知解するとき 私の記憶によって想起するのであって 愛の記憶(良い思い出。人のいい面のみを見ること)によってではなく 私の知解によって知解において愛するものを知解するのであって 愛の知解(あの人も人間だからと言ってその欠陥をも愛する知恵)によってではない。それゆえ 簡潔に次のように言い得る。この三つの能力すべてによって 私が 想起し 私が 知解し 私が 愛するのであって この私は記憶でも 知解でも 愛でもなく これらを所有しているのである。だから この三つの能力は それらを持ち それらではない一つの人格である私によって語られ得る。これに反して 神なるあの至高の単純な本性においては 勿論 一つの神ではあるが 御父 御子 聖霊という三つのペルソナが存在するのである。
(三位一体論15・21)

だから アマテラス者らのみが人間であるという場合 かれらは 人間の単純に外なる人の模範であると考えられている限りで 神々であるが――そう アマテラス予備軍が吹きかけるのである―― それは あたかも ヤシロのスサノヲ者らが 神の三つのペルソナである御父(そのとき 記憶・警世家として) 御子(知解力・学者として)それぞれとなってのように つまりそのようにしてあたかもS者が神〔神々〕となってのように やしろ全体の構成が ちょうどタテヨコの運河を形成してのように 《歴史伝統的に》かたちづくられているとき このS者なる神々の反映が かれらA者なのである。したがって 《私たちは至高なる三位一体の似像によって 言いかえると神の似像によって 人間が創造されたということを 同じ似像が三人の人間において理解されるように理解してはならない》(三位一体論12・7〔9〕)。このような外なるやしろにおける役割分担は たといその共同自治がうまく行っていたとしても はじめ(原理的)に 虚偽(甘え)であり もしいま抽象類型的に このやしろの情況がアジア社会に典型的であって ヨーロッパ社会はそうでないとするならば 後者の人間からは 前者の人間は むし人間ではないと 印象的にしろ 見なされても不思議ではない。(なぜなら 一方で 複数の人間・一つの集まりとしての人間たちの中に 三一性の似像の役割分担を見 それに甘え 他方で 個体としての人間・《わたし》においては 《わたし》が神の似像であるというその三一性主体なる存在を そのような振りをして生きているだけだからである)。
ヨーロッパ人は一般に ムライスムなる和を持たないとしても つまりムライスムなる律法和を破るという代償(たとえば 魔女狩り)を払ってでも 一人ひとりが いわば《A者(公民)=S者(市民)》という綜合された構造において存在する。と認識している。われわれはここで見てきた神の似像は 《A者‐S者》〔分離〕連関主体としての存在であったが もしヨーロッパ類型の《A者=S者》綜合連関主体が 身体を離れようとしても アマアガリすることを欲しこれwに努めたのだとするなら それは これも別の一つの欠陥であり したがって一方 《A者‐S者》分離連関が 一個のペルソナなる一人の人格においてではなく あたかも二人ないし三人あるいはやしろ全体的な役割分担のなかでのみ見られるとすれば これも一つの人間の持った大きな誤謬である。と言わなければならない。
われわれは この欠陥や誤謬を憎まなければならない。それは だからわれわれは心が清められなければならなかったのであるが 三位一体との正しい関係から来るからである。すなわち愛が 欠陥を憎む力を与えるのであり この力は 愛である。しかし 《この虚偽を内的に棄てるのでないなら どこに棄てようか》と言われたのである。なぜなら 思惟の記憶(察し合い)や思惟の愛(ただ感情に対する思いやり)が 想起したり知解したり愛したりするのではなく わたしの記憶や知解や愛によって このわたしが行為するのだからである。もし みな 自分の記憶や知解や愛によって行為しているではないかと言うなら それは 観念共同和なるムライスムの中でうまく行っている限りでの記憶や何やかやによって 思いやり察し合っているのである。この観念共同和のムライスムないしナシオナリスムなる外枠の蔽いとそれによる共同自治〔の責任〕にかんしては 成るようになるだろう 誰もそんなことはあづかり知らないのだという記憶(閉鎖的な記憶)等に拠って生きているにすぎない。責任を取らないのではなく ごめんなさいと言い合っていけば あるいは 情感をこめて非を自分に押しつければ 事は済むと記憶しているのである。これは 甘えであり 観念共同の《神の似像》であり それは 甘えであるとする反省的な意識によってのみは 解放されえない現実であり 唯物史観による歴史の進展によっても解放されえないものであり われわれの立ち場から言うと その古き人が死なせられ新しき人生まれ変わるという時間によってのみ 解放される現実である。しかし あたかも旧約で合ったと言うようにそのアマアガリの時間・《こころの内なる八重垣》は 律法和として与えられ築かれてもいたというのが キリスト史観であり これによる共同主観・《やしろ主義》が新約をとおって主張されるのである。もしこれを ちょこざいなと思うなら その人びとは この世を この世のために 愛する人びとである。しかしその人びともソシアリスムやコミュニスムであるとか 昭和維新であるとか 新しいやしろを問い求めているというように叫ぶのであると言おう。
(つづく→2007-10-27 - caguirofie071027)