caguirofie

哲学いろいろ

#101

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第二章 観想としてのキリスト史観

第三節 第三のアダムの時代

だから 第三のアダムの時代とは みながキリストに似る者となるようにして 人間が種として変わることと拝せられます。蝶は蛹の時代を思わなくなるでしょうと推察されます。倫理規範というものが〔外的に〕不必要となる。つまり 人間の言葉もしくはその内なるいのちとしては そのようにも生きるでしょうが それとしてのアマテラス語は 死語となる。したがって 律法が 或る種の共同観念(これに仕えることは ある種の条件反射のようなものだ)として必要でなくなるのはもとより 人間の理論(共同自治の方式手段)としての法律(キャピタリスムおよびデモクラシにもとづく)が 外的で第二次的なものと再確認され 動いてしまう。なぜなら一般に自己を知るためのアマテラス語が死語となって むしろ自己の内なるいのちとして神の律法(こちらは 見えない)のごとく確立されるなら これによって自己を思うことは とりもなおさず これまでの法律の機能を担うようになるから。しかしだからと言って 或る種の罪または一般にいざこざや矛盾がなくなるというわけではないでしょう。人間が種的に変わることによって共同自治の方式・形態が変わるのです。人間(現実)が変わるなら 時代が変わると拝せられます。
スサノヲ者が 自己のもとに 生きたアマテラス語を見出し それまでは社会という鏡をとおして アマテラス語による知解によって 社会あるいは自己を知って そのように或る種 外的な規範的な共同観念に 条件反射する行為として もしくは それによる他律的な行為として 自己を思ってきたものが 独立主観を勝ち取るのです。これが 共同主観となります。自己の思惟は 主観的にして 恣意的ではない。しかし必ずしもこれまでの概念での客観でもない。そのような共同主観的となる。生きた・自由な。動く共同主観的なとなる。
自己を知ること――《汝自身を知れ》――は むしろこのように 自己の思惟が 主観的にして・そして主観相互依存的な関係の中になおかつ主観的に 動きあるものとして打ち建てられたならば その過程の中ですでに かれは自己を知らなかったことはなかった・愛さなかったことはなかったことを知る。人は 《汝自身を知れ》という言葉を受け取ったときにすでに 全体として――全体をではない―― 自分を知ったというように。言うなれば アマテラス語(思想・学問行為)による自己の各行為領域に応じた知解は むしろその後について来ます。汝自身を知れと言って 学問研究に没頭してしまった学者が その意味でもはや愚か者とされるようにさえなる。人間の知恵と知識が 全体を知る もしくはさらに全体に優って何ものか知恵あり力ある実体を把握し これによって統治する(また自律し共同自治する)時代は 終えられてゆきます。人間の・ないし社会の 全体にも優ってすぐれた実体とは そのように言うほどに あの空中の権能のことを言いたいようなのであって これは 蜃気楼であり これによって統治するものごとのすべては ただ空中の楼閣 そこにおける地上的なものの高ぶりなる饗応にしか過ぎないと知るからです。ここに 人間の言葉に到達する道が開かれます。これは 第三のアダムの時代にほかなりません。
人間イエス・キリストが このすべてのものの初めとして存在したと考えられることであります。かれは 神の言葉であったがゆえに この小さな人間――十字架上の死に至るまで従順な一人の人間――でしかなかった。われわれは 新しい時代として かれに似る者となる。なぜなら かれは 父なる神(神の国)そのものではなく また人間がかれキリストに似る者となるであろうことの保証金たる聖霊その方でもなく 女から生まれた一人の人間であったからです。かれによって われわれの高ぶりの膨張は癒されます。その真理の光りに照らされてのごとく われわれの外的そして内的な虚偽が明らかにされ しかもこの虚偽をわれわれが聖霊の力を与えられてのごとくその力によって 内的に棄てる それによって心に真理を語り 人間関係においては 真実つまり人間の言葉を語りあってゆくその道が 生きた道として示された。これが アマテラス語規範なのではなかったことは くどいように説いてきました。また今後も ともに 証ししてゆくでしょう。
聖霊が内なるいのちとして宿るということは これまでの条件反射のようなアマテラス語による応答が――その地上的な権威による統治は 一般にアマテラス者会科学主体が担っていました―― すでに自己の内なる能力によって成され得ないようになる(蝶は蛹の時代を思わないようになる。その残像がわづかに感覚される) このことを意味します。アマテラス語が死語になるということは 一面で われわれの内なる人の秘蹟に与えられたほかならぬわれわれの魂(空中の楼閣に憩うかのごとく生きていた)の死を意味し 一面で この死の受け取りにおいて 人間のあの悔悛の苦しみと貞潔の或る健全な鞭が理解され それまでの不敬虔による死が破壊され これらの死によって神はわれわれを見棄てたまわなかった。つまりわれわれは そのようにまったく空しくされたが なお神の似像として生きこの生を歩むと理解されることがらです。
そこで アマテラス言語は 内なる人に属し生きた言語となります。それは スサノヲ語を基体として 全体として史観となって 生きるでしょう。なぜなら 神の似像とは 一つに このように《スサノヲ‐アマテラス》連関者としての存在――天使の高き位に上がって行くことなく また それに対抗するかのような空中の権能に支えられてのように 人間は地の低きに下り倒立したアマテラス者として生きるのでもない 人間の言葉という存在――であるからです。

  • ちなみにこの《アマテラス語一辺倒によって 〈スサノヲ語‐アマテラス語〉連関が倒立した存在者》が キャピタリスムというアマテラス語律法による私的所有の行為形式を表わします。すなわち《S者‐A者連関》のその存在を 聖霊によって保証されるのではなく A語法制によって保証され S者・S語をあたかも空気のような身体と変えて 私的=スサノヲ的所有を行なうからです。個体的にして社会的なスサノヲイストの所有はむろん わたしたちの目指すところですが これが キャピタリスト私的所有制のもとでは 倒立しているというのは S者=身体の運動・労働によって A語概念において考えられた分配・配分・所有が行なわれるというのではなく あるいは言いかえると そこでは確かにS者の労働によってその報酬が得られていると考えられているのですが すでにこの実体的な《S者》じたい A語共同観念・法制の顔蔽いを被せられている。だから そうではなく A語法律は スサノヲ者市民の協働関係に立って 作り替えられなければならないとみられる点にあります。
  • これは しかし 必ずしも労働の報酬の平等を言うのではなく はじめに――はじめに―― S者の労働 協働関係への参加が A語しんきろうの顔蔽い・ないし踏み絵が掛けられていないということを 要求しています。報酬の多寡が 倒立しているというのではなく たとえ平等なる分配体系の中の報酬であっても それが S者の労働 企業への参加の点で はじめに A語顔蔽いが掛けられる・つまり空気のような身体になるのでなければ 得られないという点に この倒立が見られるのです。空気のような身体になるというのは すでにキャピタリスムにおいては 封建市民的な身分制を打ち破ったのだというアマテラス概念の 精神的なそして時にそれの一辺倒による共同幻想的な顔蔽い つまり身分制を打ち破ったという近代市民的な共同主観が 寝かしつけられ共同観念になったその顔蔽い――この顔蔽いが ペルソナとして 人格であるとさえ考えられている――が あたかも内省=行為の形式であり これは S者‐A者の連関の倒錯であると考えられるからです。

これらの動きを 内的にもそして主観共同的にも担うそのはじめの人としては われわれはこれを インタスサノヲイストと捉えたいと思います。
これまでの空中の権能に支えられて独立した・そしてアマテラス圏を〔新陳代謝を伴ないつつも〕独占していたアマテラス者は すでに その虚偽を内的に捉え棄てるという力を 聖霊の恩恵によって与えられないかのように そのアマテラス言語というA圏としての言わば方言は かれらのあいだに 弛緩してその力が失われてしまっているからです。アマテラス者も このような自己の魂の死を あの十字架上のキリストによって捉え かれの内なる人の秘蹟神の国の観想が与えられているなら かれは そのとき この不敬虔の死が破壊され 自己が空しくなることによってむしろ蘇えったなら かれもインタスサノヲイストとして 立つはづです。
このような悪魔の克服 すなわち神の国の顕現ということは もし人間の内的にでないなら どこで行なわれるというのでしょうか。そのような力・いのちが 人間の内なる《スサノヲ者〔‐アマテラス者連関〕》の中にこそ見出されるのでないなら 神の国はもうとっくにこの地上に実現されており 人間の《悲惨》などといった言葉もなくなっており この悲惨と虚偽を癒す十字架の樹も必要でなく キリストは大馬鹿者であるはづです。たしかに 律法やアマテラス言語が死につつあり それはむしろ人間の理論・科学が取って代わったことを意味し この意味では神は死んだ。ところが今やこの時代も終焉を迎えてのように新しい時代への胎動が求められているとするなら これらすべて あのやしろの望楼に立って見るかのごとく 神の計画の中にあって むしろこの史観に立つなら 神の国の成就が そのようにしてこそ用意されていたと言わずしては なお空中の権能の用意する地上の饗宴において 飲めや歌えやと言って人は生きる以外に その生を見出せないでしょう。もしこの人間にも聖霊なるいのちが与えられているのだとすれば かれは この虚偽の死を ほかのどの動物にもまさって内的に確認し 古き人を脱ぎ新しき人を着て生きる以外にない。もし律法による正しい人が 反面でそのこと・つまり律法による正しさの虚偽をかれのもとに確認し 人間の理論・科学の隆盛による人間の歴史的な繁栄が 反面でそのことの空しさを むしろ魂の死というように内的に確認させ それぞれそのようにますます人間的となる〔のが 人間的だ〕とするなら このいのちの動きは 人間の真実であり この人間の真実〔の言葉〕が 真理なる神の言葉・神の国の似像であると悟るには また似像にしかすぎないと悟るには 聞く耳のある人には わけないことであるでしょう。
われわれは これからどうなるのか 分からないが このようにして種としての人間が変わる それは みながキリストに似る者となる第三のアダムの時代であると 宣言します。
これはまた 一種の賭け・実験でさえあっても 予言などではなく まさに現在して過程する現実であると言います。もし この史観を取らないとしても いま言っていることは むしろ経験的なことがらに立脚しており それは誰にも可感的にして現実的な言葉であると確認されるゆえにです。
(つづく→2007-08-25 - caguirofie070825)