caguirofie

哲学いろいろ

#100

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第二章 観想としてのキリスト史観

第二節 これからどうなるのかは わからない

けれども 第一のアダムの時代と第二のアダムの時代が そしてそれらそれぞれとまた第三のアダムの時代とが 互いに画一的に 人間の目から見て 分けられるというのではありません。第二のアダムが永遠であるというように 第三のアダムらの時代にも 第一のアダムが存在するというかも知れません。それは神がご存知であり われわれの知っていることは いまこの史観 ことに現代においては第三のアダムの時代の到来ということ これが 観想されて来なければならない。観想されて来たならば その観想とそして行為とが 人間の理性的に結婚するということがなければならない。その上で 過去の各時代の残像が 新しい時代へと 棄てられつつ用いられる 用いられつつ棄てられるということを 主観形成において・そして社会的なかたちをとおしても 尋求してゆく これらのことです。
人は そのために これらの観想がそして行為もが実現される運びとなるために 天使(神の国の使い)の存在を欲しても その天使の能力を自己のものとするため欲してはならない。われわれはこの地上において生きるのであり 神は生ける者の神です。新しい種としての第三のアダムの時代の到来ということは その宣言は つねに過程的であります。これが スサノヲイストのいのちでありました。(逆に言うと 時代の規定は 客観アマテラス語による理論でありました。それだけでは どうでもよいものでした)。われわれは 天使に仕えるのではなく 神に仕え 神に仕えるがゆえに 人間に仕えるのです。人間に仕えるというとき 神に仕えるその神の国は この地上の人間の国の中で いま・そしてつねに 人間的であります。またそれが 宣教・護教の時代が終えられたことのしるしです。
神は愛でありしかもその中でペルソナとしては聖霊が愛であると言われることが一層ふさわしいと言われるとき この人間の〔死の状態の中にあって悲惨な魂の〕弁護者として聖霊が キリストと父とから遣わされると言われるなら 新しい時代は 人を愛せ(インタスサノイストたれ)という言葉に象徴されるように思われます。しかしこれは もはやアマテラス言語としての律法であるとか旗印であるとかではなく 心に刻まれたいのちであり そのように義と力としてビルト・インされており またつねに 過程的・人間関係的であります。ここに 神に寄り頼むことによって天使の存在を欲するのです。
ですから 第三のアダムの時代においても 皆が天使の能力を欲するかのごとく 天使となるというのではありません。この死すべき・朽ちるべき身体において 永遠のいのちを観想し 保証金(聖霊)を与えられてのごとく これが人間のちからとなって 行為に及ぶ。つまり愛となって インタスサノヲイスムの時代が 共同主観(常識)となるのです。これが いまわれわれの内なる人の秘蹟に与えられていると思います。そこにキリスト史観があり この史観が生きられるなら 神の国の歴史も観想され これに連なってわれわれは生きると思われるゆえ。
観想は 主観内に キリストを見まつろうとし キリストをたたえます。行為は――キリストの名を出していけないという法はありませんが―― われわれが天使となって生き動き存在するというのではなく(われわれは 神によって生き動き存在する) 天の高みに走らず地の低きにも行くことなく 人間として この理性によって 過程的な愛の旅路の上にあるというわけです。あたかもこれは つまり観想と行為との結婚の尋求は 男と女との結婚とその家庭の人生における旅路に比されてしかるべきであるように。しかし 愛が基調だということです。真理をこころに語ることによる虚言をも辞さず また時に欠陥に対してはおおいに憎みをもって 〔キャピタリスムおよびデモクラシの両原理をそして〕人を愛し インタスサノヲイスム共同主観を――しかしむしろ見えざる動きとして―― 打ち建てるのです。これをとおして 永遠の生命を問い求めるべきです。
なぜなら そこに真理はあるだろうし 真理はわれわれを自由にするからです。われわれは この神の国の観想によって 人間としては新しい時代を切り開いてゆくことができます。それは 第一・第二のアダムの時代を それらを棄てつつ用いるようにして包みこんだ時代であると考えられ 第二のアダムの時代(または 第一のアダムの楽園の時代)の成就として 第三のアダムの時代なのだと捉えるのです。(むろん これを第二のアダムが成さしめたまうのであり また 第三のアダムは 楽園における第一のアダムよりも その復活の身体において 優れていると見ることは のちに機会を見て触れることにします)。 
ごく身近な――つまり耳慣れた――ことがらとして言って 第二のアダムの時代の黄昏どきに際して 一方では 人類を破壊してしまうほどの核兵器を持ち 一方では 生命の誕生を人間の手で操作するまでに至り そのような科学技術の知解行為においては 神にとって代わると言わないまでも 全体(社会関係)として 神に似る者になってきたとも考えられる。これを 第三のアダムの時代の黎明であると観想するのは 牽強付会の主観的でありつつ しかもそのような価値判断を含むがゆえに人間の共同主観的な史観をかたちづくるのではないか。(すべてが よい方向へ向かって進んでいるという意味ではありません)。
要するに このような新しい時代の観想は そのような中のつねに動きであり 主観的であり主観的であってよいがゆえに これからどうなるのかは分からないと言うほどに 歴史的な現実的であるのかと思われます。《わたしがいま知られているように わたしは全体として知るようになるであろう》(コリント前書13:12)というように つまり単に神の子であるだけではなく キリストに似る者となるであろうという時は そのようにして到来したと考えられるのです。あくまで《似る者となる》ということですが。それは 第二のアダムの言葉の歴史的な成就だと考えられます。

  • この論議に 科学的な不都合はないでしょうか。ただその意味表示することがらには 書いている本人が 驚嘆すべきものがあり つまりこの意味でわたしは 必ずしも主体的に書いているとは言えない面がありもするのですが 第一部・第二部であたかも対抗上 アマテラス語をもってする論議によって 読者を習練してひっぱってきたとするなら この第三部では このような観想へと できる限りの範囲で・またわたしに与えられた範囲で 重心を移しつつ 議論を表現することもできるかと思うのです。《これからどうなるのかは わからない》ということは 《われわれが人間キリスト・イエスに似る者とされるであろう》という約束の確実性は妨げないのですから。しかしこれが史観そのものでありました。

(つづく→2007-08-24 - caguirofie070824)