caguirofie

哲学いろいろ

#102

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第二章 観想としてのキリスト史観

第四節 観想と行為との理性的な結婚

ただし これが 観想としてのキリスト史観であることは 誰もが請け合います。それは このことが 行為とつながっていないからというのではなく 人間の歴史はまづ そしてつねに 神の国にあると言わねばならないからです。この真理から墜落して 律法の中に生きる あるいは 人間の理論に立って生きる人は あの恥づかしさの中に衣服をまとうことになったのです。衣服(顔蔽い)が人間の人間的なものであることを否定しようというのではありませんが 男は 人は 神の似像であり栄光であるから この顔蔽いを被ってはならないというようにして つまり 自己の同一にとどまるようにして 神の似像の内に歩む人は この観想と行為とを理性的に結婚させて生きることを問い求めるからであり それは あたかも 男と女とが その愛によって家庭を築き その生を生きるというとき かれらはその衣服を脱いで裸の人として交わるように造られているからです。ここに スサノヲイスムがあります。
ここから 真理が観想されます。これをほかにして あの神の像の観想は見出されません。見出されるのは あの蛇のように その衣服を長い縄のようにして引きずって その虚偽の中に つまり その魂の死と それにつづく身体の死によって なおかつこの死が死なないという第二の死の中に 生きて(死んで)いかなければならないその姿だからです。
この罪の身体・その虚偽と悲惨が すでに癒されたというのが 現代におけるキリスト史観であり もしこの聖霊の力をすでに受け取ったんまら なおかつただちには正しい者とされないであろうこの生において しかもその肢体を不義の武器として罪に委ねない――むしろ肉の情念に死ぬであろう――新しき人の生を送ることが 用意されている。これが 宣揚であるとか護教であるとかと もはや聞こえないとするなら それは 第二のアダムの時代は過ぎ去ったごとく 新しい第三のアダムの(いや むしろ だから 結局 第二のアダムの)時代の到来として そのような神の国の似像としての人間の歴史として われわれは入ってゆくことができる。それは 神には性がないからのごとく 〔新しい〕アダムとエワとは 肉の情念に死んだ・しかも身体を持って 神の似像としてつまり《スサノヲ‐アマテラス》連関者としての性および生を送ってゆく そのような虚偽を棄てた自由な衣服の人間の言葉の時代であると拝察されるのです。


《スサノヲ‐アマテラス》連関は 性関係としては 《スサンナ‐ヨアキム》連関として立てたことがあります。すなわち 《ダニエル書》の第十三章のスサンナ物語に例をとった ヨアキムとスサンナとの夫婦(対関係)の類型ですが ここで《スサノヲ》はむしろ スサンナつまり女性であり 《アマテラス》が その夫としてヨアキムつまり男性であり そしてそのように 《 Susannah ( Susanowo ) - Joakim ( Amaterasu )》連関として またさらに この場合の《 Amaterasu 》は 《 Amor (愛)-terrasse (座)》ないし《 Amator(愛する者)- ass〔eoir〕(坐らせる)》といった語呂合わせで 捉えました。Susannah は 《百合》という意味です。
ここで 魂の死というとき 悔悛の苦しみとともに 貞潔(百合)の或る健全な鞭ということが理解されます。
神の国の観想とその行為とのつながりは――つまり 《神から人間の中へ到来し 人間に近づく》という行為は―― 平面的・人間関係的に しかもまづ性関係において このように《 Susannah - Joakim 》連関としての男女両性の関係 すなわち アダムとエワとの新しい物語として捉えることができます。第三のアダムの時代とは このように 第一のアダムの時代(つまり 《ダニエル書》とこのスサンナ物語は 旧約聖書の中で この時代に属しています)の継承的な成就・そしてこれは 第二のアダムの言葉にとどまる人にこそ正しく生起する歴史であるのです。これによって一般の社会関係つまり《アマテラス‐スサノヲ》連関〔としての人間関係〕が 《スサンナ‐ヨアキム》連関といった男女両性の関係に基づくようにして――なぜなら あの観想に臨む人は 霊的に生き行為し人と交わる―― 動きある過程のごとく 現実となると拝せられます。
個人的な《アマテラ‐スサノヲ》連関の存在が あの内なるいのちによって裏打ちされてのごとく生き 社会的な制度としても これら二者が アマテラス圏とスサノヲ圏とにまったく分離されて連関するというではなく つまりひとり独立して独占するアマテラス圏が スサノヲ圏を支配するというようにではなく 《スサンナ‐ヨアキム》が一つのものであるごとく むしろ男性であるヨアキム(アマテラス言語)が よりふさわしくあの観想の力を担い しかも女性であるスサンナ(スサノヲ語)を愛し これを尊びかつ主導するように 両圏は一体である。

  • このとき 言っておきますが 夫婦の関係において 男が《主導的精神》であり女が《受動的な身体》であるなどと言っているのではありません。あたかも ともに精神の或る職務の分担があるかのごとく しかも その両性の対関係としてのつながりは むろん人間と人間とが結び合わされるのです。ちょうど神によってと言うようにして どちらも 精神の職務であるかのように ヨアキムをもスサンナをも担うということです。どちらも 精神の職務です。早い話が まだ 第一のアダムの時代の残像が残るという問題だけです。

その上で ふたたび 時間的なものごとの管理は 女性であるスサンナが担うごとく 両圏の中では スサノヲ圏がその第一次性・歴史性を担うとこそ言うべきです。神の国は この理論をとおして観想される ないし 神の国の観想は 社会関係についてこのように理論する そしてそのしかも矛盾過程の中で 行為してゆくと思われます。
観想と行為との理性的な結婚は 社会制度の理論が出たところで これくらいにとどめるべきだと思われます。
(つづく→2007-08-26 - caguirofie070826)