caguirofie

哲学いろいろ

#103

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第二章 観想としてのキリスト史観

第五節a 愛(インタスサノヲイスム)とはどういうことか

観想としてのキリスト史観は 現代におけるキリスト史観として 第三のアダムの時代を見ようとするとしても むしろ 第二のアダムすなわち人間キリストの神による派遣とは何か このことをさらに尋究してゆくべきと考えます。
そこで その前に ここでは この第三のアダムの時代に 知解(生産)行為の原理でもなく 記憶(社会組織)行為の原理でもなく 意志・愛(自治・経営・政治)行為の原理にかんして しかも この第三者は 前二者を 存在・行為の中軸として みちびくというように捉えるならば それはどういうことかを考えておきたいと思うのです。インタスサノヲイスムが キャピタリスムやデモクラシなる原理を導くとは どういうことか これです。また このことは 神の国(神の言葉)にとどまってのように観想することによるのであり そのことじたい 神の言葉である人間キリストの派遣とは いったい如何なる事態であったのかという問い求めにつながっていると言っていいと思います。

なお 知解と記憶とが 意志・愛とは別の 人間の行為能力であることを あらためて簡単にのべれば 次のようなことを言います。
すなわち 利潤の極大化原理を知解することと それをそのまま意志するかしないかとは 別のことである。あるいは 企業の内外のその他多様な要請・要求に応じて意志すべきだと知解することと それをそのまま愛し実行するかどうかとは 別のことであるといったふうに。
このとき たとえば精神は 記憶に照らして 利潤の極大化原理を知解するというとき 記憶(このばあい論理的な視像)と知解(その視像からの視像・視観)とは 互いに一つのものであるかのように 区別がつかないほどである。ただ そうであるとしても 第三の行為能力である意志・愛は 当然のごとく これら記憶と知解とは あたかも別種の法則によってのように 異なってはたらくというそのような人間存在の形式であり前提のことです。
A.スミスは スサノヲ市民が 各自の知解・経済的な主観に基づいて行動するとき 全体的な大きな愛も たとえば社会的な福祉として 実現されるであろうと考えた。いま大雑把に言って これに対して ケインズは これと同時に アマテラス社会科学主体が 愛・政治的な主観(なんらかの主観)にもとづいて 行動することも必要であると考え さらにマルクスは スサノヲ市民もアマテラス公民も ともに 知解的な主観だけではなく 愛的な主観にも基づき 行為しうるような新しい《S圏‐A圏》連関制度が必要であり かつこの連関制(つまり やしろ全体=キュリアコン)を 人間の制御しうるものともすべきだと主張した。
もしそうであるなら キリスト史観の見るところは 一つにはマルクスとともに S圏=ヤシロに歴史のかまどはあるのだと見るゆえに そうして 《知解〔‐記憶〕‐愛》なる存在者としての主観共同が 第一義的に このスサノヲ圏=市民社会にっカウ立されうるような社会制度へと再編成すべきだということになります。もしマルクスが 《S圏‐A圏》連関体制なる国家をまづ新しいかたちへ移行させるべきだと考えたとするなら キリスト史観は すでにこの国家は ほかならぬ各スサノヲ市民の主観のあいだで しんきろうであると見ることによります。言いかえると すでに各主観の内に 知解だけではなく 愛は存在している だから 権威への従順という〔までに権威制度の移行をすでに見ているところの〕愛はすでに存在してのなら これにもとづいて キャピタリスムないしデモクラシを運営してゆくことができるとすることにあります。このような共同主観ないし主観共同化の過程でありました。


スサノヲ(ないしスサンナ)は 経験的なものごと〔を管理するべくこれ・〕すなわち経済的な行為の原理として キャピタリスムを知解します。また かれ(またはかのじょ)の存在じたいは つまり その存在の構造を視観する記憶じたいが 同じく経験的なものごとの〔精神をとおしての視観としての〕秩序・すなわち社会組織行為の原理としてのデモクラシを 〔記憶し〕知解します。人間的な意味で 経済的な行為がその土台であるとするなら このデモクラシは 大雑把で一般的に言って キャピタリスト・デモクラシでるとも知解します。(いまは これへの共同観念・ナシオナリスムの介在は問わないことにします)。
このような記憶(視観)および知解(視観からの視観)を 第三の行為能力としての意志・愛が つなぐようにして 全体として 行為し生きるとは どういうことか。それによって キャピタリスムやデモクラシが動いてしまうとは どういうことか。インタスサノヲイスムは それらをどのように導くというのか。前節の最後に述べた《観想と行為との結婚にかんする第一次性にとどまるべき》という戒を破って いくらか考えたおきたいと思いました。
たとえば 等価交換という原則 またこれがデモクラシ原理によれば どの経済主体にとっても 差別なく有効に働くということ――これらは まだ アマテラス言語である―― これを インタスサノヲイスムにおいて愛するとは どういうことか。また 等価交換というときの等価の中に すでに第三角価値(利潤)が含まれているが そしてさらに 経済主体の差別なき自由な主体性というとき そこには この等価としての価格の決定という・交換以前の・主体〔相互依存〕的な行為も含まれていると見なければならないが このとき このアマテラス語が動くとは いったい如何なる事態を言うのか。また ここで そこには 土壌として介在するナシオナリスム・共同観念的な条件が はたらくと思われるが これが媒介的な土壌として 共同主観によって――等価交換は共同主観にもとづいて行なわれる―― むしろ主導されるとは いかなることか。
ここでわれわれは何を愛するのか。愛するものなど また ことなど ないのであるか。
いま 結論を急ぐとすると そこでわれわれが愛すべきものはあり それは あの人間の身体の直立性からさえ表象されるべき正しさという形相ではないだろうか。とまづ おさえてみる。したがって これにおいて互いの経済主体である人間をではないだろうか。その欠陥を憎み 全体としての人間をではないかと。
この愛は――なぜなら―― いまの等価交換における〔利潤の存在 経済主体性の現実的な不自由 共同観念から来る制約の ただちに解消された〕論理的な正義を愛するのではなく 等価交換の行為じたいを 〔相互〕主観形成の過程の一部として見 主観は神の言葉にとどまるようにしてその欠陥・虚偽の棄てられること・また癒されることを欲し キャピタリスムないしデモクラシを動きあるものとして捉え行為すうと思われるからである。正しさは 主観・史観の正しいであると思われる。
主観がつねに神の似像の内にとどまる(知解と愛 観想と行為との結婚)とは このような愛が――知解・記憶行為より以上に 愛が―― 共同主観となることでないなら われわれはどのように歴史を捉え これを考えるというのであろうか。
しかしこれは はなはだ倫理的なことがらのように 人には映るであろう。理想とか非現実であるとか言うのでなくとも この現実を――神の国の現実を―― もし人がその人間的な意志の力に酔って固く守るがごとく押し通そうとするなら むしろその現実は そのときに現実から遊離した非現実だと指摘されねばならないであろうから。
何が 問題か。
等価交換より以前の それを成り立たせる社会的な制度が 問題であろう。そしてこれを指摘するほどに この制度を形作る人間という存在の把握が であろう。
(つづく→2007-08-27 - caguirofie070827)