caguirofie

哲学いろいろ

#104

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第二章 観想としてのキリスト史観

第五節b 愛(インタスサノヲイスム)とはどういうことか

何が 問題か。
等価交換より以前の それを成り立たせる社会的な制度が 問題であろう。そしてこれを指摘するほどに この制度を形作る人間という存在の把握が であろう。
言いかえると 等価交換そのものにおける論理的な正義ではなく――それを律法主義的に守る人の現実は 神の国 いやむしろ 十字架のキリストを もう一度 地に降ろすようなものである だから 数値的な正義がではなく―― 観想的な正しさ だから 行為として 社会制度という前提における経済主体相互の(そしてそれは 全体的な) 意志(意思決定の過程)が 問題となって現われなければならない。そもそもこの意志は 愛にほかならなかったから。
したがって キャピタリスムやデモクラシを動きあるものとするという共同主観は 社会制度を動きあるものとしなければならない。それを動かす人びとの意志(意思)決定過程を――それは 外的なことがらだが それとして―― 愛さなければならない。ここで インタスサノヲイスムの原理は スサノヲ圏を第一の基盤とすると思われる。なぜなら 人間という存在の 神の似像は 《スサノヲ‐アマテラス》連関という構造に見出され これが互いに分離されないで――ナシオナリスムによって一つのものとされ分離されないのではなく 共同主観によって一つのものとされ―― 意志決定の原動力とも言うべき理性的な《アマテラス者性》は その基体である《スサノヲ者性》を担いむしろこれに従うと言っていいからである。(これから独立して離れないで 従うからこそ これを主導するのである)。
したがって ここで このインタスサノヲイスムに基づく社会制度の意志決定過程は スサノヲ圏に立脚したインタスサノヲイスム=インタキャピタリスムという方式を見い出して差し支えないと考えられる。また 神の国の観想からの行為は 基本的に この意志決定行為にのみかかわると思われることである。また あとの社会過程は どうでもよいとさえ扱うべきであろう。
こう考えるなら 元に戻って 事はなお主観形成の問題 かれが内的に虚偽を棄て真理を語るか否かである。しかも これは すでに触れたように 一人高しとする倫理規範的な行為としてではなく 時代としての主観共同化の過程として考えられるべきであり――またさらに 一度 虚偽を棄てた人は すでに完全であるとかと言おうとするのではなく あたかも人間が変わってのように そのような主観共同化が 常識となる時代を予定していなければならないが―― これに帰着させてよいと思われる。これが 愛の問題であるかと思われる。
この愛が 単に形而上学的な議論の所産だとしても――むろんわたしたちは そうではないと言おうとするのだが―― 理論の正しさによってこの愛を生かすのではなく この愛によって史観となって 観想と理論と行為とに及ぶと考えねばならない。
この愛によって 倫理規範(等価交換およびそれ以前のキャピタリスム・デモクラシの原理)が 生きた過程として生かされるのであり この愛を愛する人は 能力によって 非倫理的な行為を為し得ないということ いやむしろ 非倫理規範的な行為をも時にあえて為すことによって 正しさの形相に寄り縋るようにして キャピタリスムないしデモクラシを動きあるものとするのだと思われる。インタムライスムとインタキャピタリスムによる社会制度は その一手段であるから。
これらすべて 第三のアダムの時代にかんするやはり観想なのであるが それは 上のような新しい時代を予定していると述べたことにもかわらず 共同主観の問題であると考えられた。すなわち これが 内的〔な形成〕でないなら わたしたちは歴史を扱う資格も意義もなくなると思われたからなのである。このような議論は一度 必要であると思われた。


《義なる心とは 自分の生活と行状における知識と理性によって各人にその持ち前を配分するものである》と私が語り そのことを知りつつ語るとき カルタゴのようにいま眼前にない或るものを思惟するのではなく またアレクサンドリアのように或る想像物を実物に一致しようがしまいが やっとのことで作り上げるのでもなく 私は或る現在するものを認め しかも たとい私じしんはそのように認める当のものではなくとも 自分のところで認め 多くの人は私が認めるものを聞くとき同意するであろう。そして私からそのことを聞き 納得して同意をなす人はだれでも かれ自身はたとい自分が認める当のものでなくとも 自分自身のもとで私と同じことを認めるのである。
だが 義人が義について語るなら かれは自分自身そうであるものを認め かつ語るのである。かれ自身も 自分自身のもとでなければ それをどこで認めるであろうか。自分自身のもとでなければ どこで自分を認めるであろうか ということは不思議ではない。しかし 心が他のところでは決して見ないものを自分自身のもとで見ること そして真なるものとして見ること さらに自分じしんの心であるが 自分自身のところで義なる心ではないこと は不思議なことである。まだ義ではない心の中に偶然に他の義なる心があるのであろうか。あるいは 心が 義なる心とは何かを見て そのことを語るとき そこで見るものが存在しないなら その心自身は義なる心ではないゆえ 自分自身において以外の処で見ないのであろうか。それとも 心が見るものは それを直視し得る心に現在する内なる真理であろうか。
すべての人がそれを直視しうるのではない。また直視しうる人もみなが その直視する当のものではない。言い換えると 義なる心とは何かということを見て語りうるように義なる心そのものではない。かれらがそこから形成され 義なる心になるため 固着することによらなければ どうして義なる心でありえようか。
アウグスティヌス:三位一体論 8・6〔9〕)

なぜなら ヤシロイスム・社会主義が人間を変えるのではなく――つまりそのように環境が人間を変えるというのは その新しい環境において 義なる心つまり《自己》を思惟しつつ あらためてこの自己への還帰を 主観形成するようになるというほどの変化を言っている。したがってここでは そうではなく――人間が すでに変えられてのように ソシアリスム〔ならソシアリスム〕を 過程させるという史観が問題であった。
知解行為は 歴史の進展とともに その新しい経済行為等を用意するであろうが その土台にとっての中軸である愛は すでに自己のもとに存在するというのが キリスト史観である。したがって誰も 《独力でこの史観の主観共同化を為し得ない》のであり 次にもし このように《独力で共同主観を確立しえない》からこそ まづ《歴史の自然過程に身を委ね しかも ソシアリスムへの革命の生起を見る ないし それを起こす》というのであれば それは 独力で愛を共同主観たらしめようとすることである。つまりこの愛を 裏返して外に 着ていることになる。わたしたちは 革命などありえないと言うのでもなく また 革命を起こせと言うのでもない。なお沈黙すべきではないとするなら まづ革命が――あの死から生への革命が―― 内的に与えられると言おうとしている。
キリスト史観はほんとうは これ以上・これ以外のことは述べているべきではないのでもあった。しかし 或る意味で現代では 宣教・護教の時代が終えられたがごとく 人間の中へ到来し 人間に近づくべきであると言ってのように そうしてキリスト者ないしインタスサノヲイストは 互いに対立的な主張や勢力の中にありうると言っておいてのように その史観を明らかにすることを課題とする。
(つづく→2007-08-28 - caguirofie070828)