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もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513
第三部 キリスト史観
第二章 観想としてのキリスト史観
第六節 キリストの派遣とは何か
神の国の歴史は だから人間の歴史は すべてこのキリストの派遣とはいったいどういうこ歴史であったかを問い求めることにある。人はパンのみにて生くるものではないゆえに。だから ここから人間の歴史 パンとそれにまつわるもろものの歴史が生きる ゆえに。人はパンのみにて生くるものにあらずと人間として述べて生きた神の言葉の存在のゆえに。その派遣とは いったい何であるのか。あるいは 何でないのか。
キリストは 人間(しもべ)の貌として パンを食べた。(《大食漢で大酒飲み》との噂さえ飛んだ)。人間の貌として 十字架上にその身体は死んだ。また 神の貌として 十字架上の死を欲しられ それに至るまで従順となって 父なる神のみ心を告知した。この告知のために派遣されたのであることは すでに述べた。
われわれは 神の似像としての人間の存在を 《アマテラス‐スサノヲ》連関構造として措定した。人間キリストは 《人性(神の背面)‐神性(神の言葉)》なる存在である。ゆえに 《A‐S》連関構造は まづ神の似像であり(――だれも アマテラス概念・精神・理性ないしアマテラス者が 絶対不変・不可死・永遠だなどと思うほど愚かではない――) しかも そのような人間の存在は すべての欠陥が癒されてのごとく 〔神の似像としての神の子である〕栄光から 神に似る者となるであろう栄光へ 変えられてのように この人間キリストに似る者となるのである。
- シントイスムで 人間も 神々のうちの一人の神になると説かれるが 共同主観の原理に照らして 同趣旨であると考えられる。
十字架上の死が その十字架という木が生命の樹となってのごとく その魂の死において神に見棄てられたとき そのような不敬虔の死は 十字架のキリストに拠ることによって 破壊され 神はわれわれを見棄てたまわなかったという新しいいのちとして 生きるのである。これは 人間という種が 変えられることであると推察される。また 人間の歴史としては 第一そして第二のアダムの時代から いま 第三のアダムの時代へと その新しい種として 生きることと推察されるのである。
キリストの派遣とは この人間の歴史的な移行によって 証しされ そのように相応することになると思われる。この理性的な観想が――虚偽を内的に棄て真理を語ることは 理性的にでなければ 誰もできないが―― その観想と理性の主体 すなわち人間を変えるのであれう。(人は ここで 神がかりであるとか そのたぐいの宗教を超えよ)。
神の言葉がこのように われわれに臨むことに 誰が疑問を抱くであろうか。神の国が 見祀られることを 誰か不遜にも否定するであろうか。ここに生きることは 人間が生きることにほかならず ここから人間は 人間の言葉に到達しなければならない。このように変えられることに 誰か不満を抱くであろうか。不平を言うほどに キリストに遠く離れた――もしくはかれを超える――存在であるだろうか。
汝自身を知れと言われたそのときに キリストによって この新しき人を自己のもとに 全体として見る。この第三のアダムの誕生することに だれが異議を唱えるだろうか。しかもこえrは コミュニスム社会の実現・それへの革命といった外的なことがらではなく まづ心の内なる革命に属し いま行なわれることである。内と外とに分けるからではなく そのかかわりにおいてこそ 内に生起するのである。心の内なる回転というほどに 主観および史観が 人間の全体として 変えられる。原理的には一瞬(聖霊によるバプテスマ)のうちに そうして 矢が取り除かれることと その傷が癒えることとは別であるように 時間的・過程的に 生起する。この回心は 理性的な観想において行なわれる。ある日ふと霊感を受けて 風景が一変するというようなしろものではない。日から日へ あのやしろの至聖所に臨むその魂において ただしく進むその観想する理性をとおして 生起する。しかも あの身体と魂の全面的な死をとおってのように。この革命の道を通って人は 第三のアダムの時代へ入る。
キリストの派遣(その誕生と死 復活と高挙)は いまこのことを語っているとしか考えられない。わたしの観想にあやまちがあるなら 誰かこれを指摘してほしい。この新しい時代は 《アマテラス(普遍抽象)‐スサノヲ(肉。人間としての内なる感覚)》連関者としての人間が 人間キリストすなわち《人性(可死性・神の背面)‐神性(不可死性・神の言葉)》なる存在に似る者となる世界であると推察される。
律法・アマテラス言語・人間の理論(科学)といった人間の言葉が それぞれその最高の段階に達し 人間はますます人間的となる一方で それらの氾濫の割りには人間の虚妄が過ぎ去らず むしろそれら魂の崇高な規範であるとか知解行為であるとかによってこそ魂は死に追いやられるがごとく 人は空しいものとされるとするなら この 時の充満が訪れることによって 人間はその内なる主観において或る種の心の回転を余儀なくされる。回転の基軸を求めている人びとは 十字架上の死から生を還りたまうた人 その生命の樹に 理性的な回転する観想を見るべきである。第二のアダムの時代を通過することによって あるいはなおも続いている第一のアダムの時代は 充満する時が訪れたと思われる。第一のアダムとエワとによって 死が入ってきたのであって 第二のアダムがこの死を征服した。この死〔の制作者〕に捕獲されていた人びとは 魂の死 神の言葉に敵対する不敬虔の死を あの十字架に――わが神 わが神 なにゆえ われを見捨てたまいしや――見出すことによって この死が破壊されて 神はわれわれを見棄てたまわなかったと知るごとく われわれは 血筋によらず 肉の意志にもよらず また人間の意志によらず 神によって新しく生まれることになる。
この見えざる聖霊による洗い清めを通過して――そのミソギにおいては 原理的に一瞬のうちに すべての虚偽と罪の病いが癒されるのである―― そうして なおも時間的に この虚偽の病状に応じて 段階的に日から日へ 新しき人を着てゆくのである。時間・過程的な治癒によるのでないなら 人間は神に等しいもとなってしまう。しかし 原理的にすべての罪が許されるのでないなら 生命の制作者の永遠の像を どこで結ぼうか。そしてこの信仰(こころの伸び。停滞ではない)は 可感的な観想による一瞬としてあり――だからと言って風景が一変するというわけでもなく なぜなら 神の似像たる《自己》・原主観・《愛》は もともと存在していたものであり 獲得するという言葉で表現する場合があっても それは 到来する・発見するといほどのことであり また外なる風景が別様に見られることとなるのでもない。すなわち自己は自己をもともと知らなかったのではなく 愛してこなかったわけでもないと 霊的な共同主観の時間が訪れるのである。自己に訪れるのなら 他者にもまた訪れるであろう。だから風景が一変するのではない―― かつ理性的な過程的な治癒においてなされてゆく。またむろん 自己が為してゆくのである。この歓喜とともに 神の似像のうちにとどまる。聞く人は聞け 見る人は見よと言ってのように。
見よ 神の御子は何のために派遣されたのであろうか。いなむしろ 見よ 神の御子の派遣とは何であろうか。
真理を観想するように私たちを清める信仰をつくるという目的のために 永遠から発出され 永遠に向かって関係されている初めを持つものにおいて時間的に為されたすべてのもの(人間の共同主観的な歴史)は 神の御子の派遣の証言であるか または神の御子の派遣そのものであった。しかし或る証言は来るべき神の御子を前以て告知したのである。たしかに すべての被造物がその御方によって造られたのであるが その御方が被造物を証言として持たなければならなかった。多くのものが派遣されることによって一人のお方が告示されるのでないなら 多くのものが立ち去らされるとき一人のお方として保持されないであろう。また もし小さなものにとって大きいと見られるような証言が存在しないなら 小さいものに小さいものとして派遣された大きいお方が 人びとを大きいものになしたまうのだとは信じられないであろう。
天と地と またその中にあるすべてのものは 御子によって造られたゆえに 神の御子の御業であり 御子の証言のために現出した徴しや奇蹟とは比較を絶して大きいのである。それにもかかわらず 人間は神の御子によって造られたこれらの大きなものを小さなものと思ったように あの小さなものを大きいもののように恐れたのである。
だから時の充満が訪れるとき 神は御子を律法の下に女から創られて 遣わしたまうた。
(パウロ:ガラテア書4:14)というほどに小さく 《創られた》ということによって派遣されたのである。
(アウグスティヌス:三位一体論4・19〔25−26〕)
人間の歴史と全世界とによって 神の言葉が証言されるというとき 人間は 神によって造られた神の似像としてとどまる。こう認識するほうが 人間にとって健全なのである。誰も 人間が自分自身の存在の根拠であると思いなさないように。そうすれば この神の似像としての・それへの回心は 自己を生かす。キリストは 神の言葉であるのに 人間として造られ みづから空しくされて このすべてのものの初めとなられたのである。この肉においてわれわれの内なる人の秘蹟 外なる人の模範となられたのである。人間は誰も 天の高みへ走りゆかず 地の低きへ移り行かないためである。ここに 神の国を分有する人間の言葉が存すると思われた。すでにこの共同主観は 一つの時代として 第三のアダムの時代として与えられていると思われるゆえ。(つまり このような立言は その確認のため 主観共同化の一つの方法としてである。《神》という言葉を用いて論議することは いま 必要であると思われた)。
(つづく→2007-08-29 - caguirofie070829)