caguirofie

哲学いろいろ

#99

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第二章 観想としてのキリスト史観

第一節 宣教・護教の時代は終えられたということ

人間キリスト・イエスは 第二のアダムとして 新しい時代・第三のアダムらの世紀を用意された。ここでわたしたちは キリスト史観において おおきく三つの時代を分ける・第一のアダムからの人間の時代・第二のアダムからの人間の時代 そして第二の時代を承けて第三のアダムらとしての人間の時代である。
第一のアダムの時代は 《悪魔(罪・死)‐律法(アマテラス言語による罪の共同自治)》の歴史である。(各共同観念・ナシオナリスムにおけるそれぞれ時代的な展開のくいちがいは いまは問わない)。
第二のアダムの派遣は かれキリストじしんは 人間の歴史を通じて 永遠であるが この第一のアダムの・つまり律法の時代の終焉を告げ また第三のアダムらの時代の到来を用意した。その間の歴史は キリスト史観のあまねわり(カトリシスム)の時代であり 宣教に始まって護教論の歴史である。このキリスト史観による 人間の言葉に到達する新しい時代への観想・理論(科学)の諸世紀である。いま 人間という種が変わり 第三のアダムらの時代に入るということは この宣教・護教論あるいは人間的な理論(科学)の時代の終焉を意味しなければならない。殉教者の時代が終えられ かれら死者が復活してくる時代でもある。律法の時代の終えられたことが 世界的に確認され成就する時代である。人間的な尺度では これが 高々 二千年の時の経過によって成就することになったと確認されるのである。人は 時代の変貌を見よ。なんならキリストを信じるべきである。

  • 神は ユダヤ人(と後に呼ばれる)のアブラハムに 時間的・歴史的に生起したのである。アブラハムによって その神は永遠であると観想されたほどに そのかれの共同主観が 歴史をつらぬいたのである。つまり その過去へは 最初の人間アダムとエワにまで及び(つまり かれら死者が アブラハムの史観の中に復活し) 共同主観・コミュニスムを形成した。未来へは やがてかれの子孫の中から 第二のアダムが出現することがやはり共同主観されたのである。この間の時間は 約二千年であった。この共同主観は はじめにそう約束されていたというほどに この第二のアダムなるキリストによって アブラハムの民・ユダヤ(ないしイスラエル)の一共同観念の枠組みを超えて すべての人間のものとされた。この時点ですでに このような共同主観によって 世界が第三のアダムの時代に入ったと考えられる。そしてそのカトリシスム(プロテスタンティスムや唯物史観やを出すほどに 普遍化するキリスト史観)の確立のために つまりもう一度いいかえると 《宣教という愚かな手段》によって始められたこの時代が やがて護教論を必要とするほどの普遍化 ま他同じく 神を直接に表象しないかたちの人間の理論・科学を出すほどに・もしくは 共同主観が 内的には信仰として自由に与えられ保持され 社会的にこの信教・思想の自由のもとに 互いの間で形成されてゆくという現実を見るといった普遍化・その確立のために 新たな二千年を必要とした。

近代市民たちの人間の理論・科学 ことに知解・生産行為の原理としてのキャピタリスムそして記憶・社会組織行為の原理としてのデモクラシ これらは 第三のアダムの時代を キリスト史観において 用意すると捉えられる。律法(それじたいは神によって与えられた。つまり自然本性)が 人間の手になる法律と変わった。悪魔が 原理的に(オリジナルに)捉えられるのではなく 社会の共同自治のあいだで 罪ないし〔魂の〕死と人間的に捉えられるようになった。その政治経済学的な根拠が明らかにされるようになった。またこのことは それぞれ律法も悪魔も いわば人間の外に アマテラス言語(その単独分離=独立かつ独占的な位置づけ)として 捉えられるようになったことを意味する。
経済学的な私有財産制とは 形而上学的もしくは政治学的にこのアマテラス言語の分離独立への人間の欲望・さらにそれによる社会形態の独占への保守という欲望を言う。この私有財産制のもとにアマテラス言語の所有・独占によってアマテラス圏をかたち作った人びとは むろん ある意味で自由競争のもとに 新規のアマテラス人種の参入を受け容れつつ アマテラス圏の・もしくは《A圏‐S圏》分離連関体制の再生産を行なってゆくのである。これらの意味では この第二の(つまりはそれを承けて第三の)アダムの時代においては 逆接的に 宣教・護教論の歴史が つづいていると言わねばならないのである。人間の理論・科学・思想を築きはじめた近代市民らも その初発においては 神を見ていたことは その象徴である。《神は死んだ(もちろんこれは 十九世紀の人間の言葉である)》は この大きな視野に立つあのやしろの望楼に臨んで 理解されなければならない。
しかしわれわれはここで これまでの観想と思索から この宣教・護教の時代が終わったと宣言することになる。《神は生きている》と もはや護教することなく(その必要がなく) かれは永遠であるからである。律法による自律という実は他律から来る虚偽を内的に棄て 近代市民らからの人間の理論を 真理を心に語ることによって 真に人間の有とし キリストをその長子とする人間が 殉教者の霊的なそして身体の復活とともに 人間のともがら(インタスサノヲイスト)となって それぞれのナシオン(共同観念のくに)から 輩出し――しかしそれは 社会階級関係への闘争には限定されないであろう。もしくは意識的に一元的にそれとは規定されないであろう。つまり 階級闘争は キャピタリスムにかんする・すなわち知解・生産・経済行為にかんする人間的な理論から来る土台的ではあるが人間の一部の社会行為である―― もはやアマテラス律法に対するアマテラス言語による宣教・護教を必要としないようにして 史観となって生きるからである。
なぜなら かれらに この史観は 生きたいのち・もしくはその生活そのものであるから。なぜなら 虚偽をすでに棄てているのであるから。罪の身体がすでに滅ぼされているのだから。律法に他律されないことはもとより 人間的な理論や科学にも そこに真の自己は見出されないと知ったゆえ。
しかし キャピタリスムもデモクラシも 人間の理論であり 人間の有である。これを自己のもとに用いて 第三のアダムの時代を切り開いていかざるを得ない。宣教・護教を終えたゆえに この人間の理論を用い継承して 新しい歴史へと踊りあがってゆかなければならない。その原理は 内なる人の秘蹟に与えられたキリスト史観である。キリスト史観とは この転機にあたって そう言うのみである。

わたしたちは 自分が本物の信仰者として見えるようにということではなく たとえ偽の信仰者と見えようとも あなたたちが善を行なって(虚偽を棄て真理を語って)くれるようにと願っているのです。
(コリント後書13:7)

とは 外交官パウロの宣教という愚かな手段に訴えた神の言葉としての人間の言葉。われわれはすでに この聖霊を受け取った者として 第三のアダムの時代を宣言しようと思う。 
(つづく→2007-08-23 - caguirofie070823)