caguirofie

哲学いろいろ

#110

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第三章 日本人にとってのキリスト史観

第三節b 神の国と地上の国

しかしこのことは 我田引水と見られようとも 偽の使徒と見えようとも わたしたちは あの十字架上のわたしたちの魂の死からの転生 すなわちキリストの聖霊によるバプテスマを受け取ることによって――なんなら ほんとうのミソギによって―― ただちにその虚偽の病患は 根源的に 癒されたのだということでないなら これにもとづく時間的・段階的な病いの治癒も まったく空しいものとなるであろうことを指し示しています。
これは 第二のアダムの時代として すでに生起した歴史であり 《日の下に新しきものない》と告げる言葉も この常住の神の国の不可変性・不可死性・不壊敗性を物が立っていないなら 人間はその歴史の歩みの中において もっともみじめな生物ということになるのではないだろうか。これは 倫理や道徳ではないはづです。
われわれは この神の国を いまこの生において直接に見てはいません。しかし これを愛するこの希望が 神の似像の健康な姿 すなわちあの病いの癒えた証拠となると断言すべきでないなら 人間は歴史的に滅ぶ以外にない。つまり アマテラス人種が スサノヲ者を ことば(A語)たくみにあやつり――階級関係・私有財産制からの地下r以上にさえそのように―― 悲惨な歴史を生きるという以外に 人間の生は考えられ得ない。人間の歴史は ここから出発すべきではないでしょうか。だから 人間の内に知恵ある者・学者は アマテラス人種以上に 愚かにされるのです。また 知者を責めよ そうすれば学は進むであろうと言われます。神の国から人間の中へ到来し 人間に近づく者の人間の歴史にかんする研究 これが その歴史を新しいものとして――たしかに《新しいもの》として――切り拓いてゆくはづです。これをわたしたちは 第三のアダムの時代への回転と言うべきと思います。
《日の下に新しきものなし》と悟った学者の学問的な研究・成果が その史観ないし方法において 覚束ないものだということは 当の学者じしんが知っていることであり この心の回転なしには 神の似像はとどまらず 人間の悲惨はなくならず しかも人間は まったく同じかたちでの悲惨と虚偽における饗応を繰り返していく生物だとは思えないからであります。《神は死んだ》という新しい段階が 人間の歴史に生起したのなら その前に 《神は死んだ》のちのさらに新しい段階が来ないという保証もないと言うのなら その人間の正義を口にすることは その人じしんを涜すであろうと言います。少なくとも その人は 自己の内から外に出かけて その正義を語っているのであり わたしたちは そうではなく 内的に語るのだと強弁しないまでも ただ五分五分の可能性を語っているにすぎないからです。
それに 歴史は その歩みを止めて ポツンとその史観が見られたり語られたりするものではなく わたしたちは 《神は死んだ》一段階がそう言われ ある程度の共同主観ないし共同観念として認識されたとするなら ふたたび――しかし以前とは異なったかたち すなわち ただ人びとの内なる人の中に 信教の自由のもとにおいて―― 《神は生きている》時代が来ないとも限らないと言おうとするにすぎないからです。わたしたちの神の国の観想は このことを告げると述べるにすぎません。それで十分だと思います。だから 《神(つまり 宗教)は死んだ》のです。

  • また 《神は死んだ》という判断が 日本には通用しないとするなら 日本人にとっては一般に まだ・そして歴史をとおしてと言うように 《神々は生きている》。ただ シントイスム共同主観が 至聖所の奥なるわれわれの存在の根拠としての神そしてキリストを 密教的にしろ 見ていなかったとは言えないとするなら 《神は生きている つまり神は生ける者の神である》からこそ それが共同観念的なかたちへと移ってでも 《神々が生きている》と考えられる。これは 人間的な尺度で言った《神神習合》のかたちであり もしくはそのように習合を見る必要はない共同観念的な現実であり まて 江戸時代の神道家に 《神基(=基督)習合》を言った人も現われたことは シントイスムの実体を表わしていると思われることです。

(つづく→2007-09-03 - caguirofie070903)