caguirofie

哲学いろいろ

#111

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第三章 日本人にとってのキリスト史観

第四節 キリストとバプテスマ

しかし 《神は死んだ》にしろ《神は生きている》にしろ――それらは いづれの表現によっても 《神》じたいについて変化はない―― わたしたちは ほかならぬ日本教もしくはシントイスムの中に このような観想もしくは議論が潜むとも見ます。
先ほどからのベン・ダサンは このような天秤体制つまり ただ人間(日本人)が中心的な支点を占める共同自治の世界の中では 《神は住みうるか / 神の実在が考えられるか》と  かれの同胞つまりユダヤ人たちに問いかけています。
しかしベン・ダサンは あまりにも経験的なものごとの動きに引きずられているのではないでしょうか。かれらユダヤ人の間では 神の実在が信じられていると言おうとする言外の意味が もちろんあるのでしょうが だからほんとうには このように異質の世界を認識し対照させることによって われわれの視点からは むしろ 不在なものの現在という神〔の言葉〕の間接的な証明にこそなっていると思われるわけなのですが したがって ここで明らかになることは 次の点でしょう。
(1) 人間(日本人)を支点として ちょうど 天秤の両方の皿に 実体語と空体語を載せて これらの平衡感覚のもとに 共存する世界には 神は存在しない。なぜなら そこでは人間が中心であり その人間の言葉は 経験的なものごとの認識としての実体語と空体語のほかにはないというものであるから。この限りでは ここでは これら(実体語と空体語および人間)以外の不在なものの探究はおこなわれないから。
(2)かれら(いまユダヤ人)は この天秤体制の中にはいない。だから 実体語・空体語をあやつることはしない。したがって 人間 一人の人間が 基軸ではあっても 何らかのつり合いを取るための支点などではないのだから あたかもその人間〔の言葉〕は 神の言葉に従うというようにして 生を送る。そこには 神が存在する。
(3) かれらに神は存在するというとき それはたとえば 《人間の正義は涜れた布切れの如し》 《日の下に新しきものなし》といった言葉に従うところに実在すると捉えられているもののようである。
(4) しかし これらの言葉は 神の言葉 あるいは 神の言葉を観想する人間の言葉 あるいは その観想を そもそも表わしているに過ぎないものなのではないだろうか。そうでなければ この言葉に人間が従うというとき その従う原理は 不在なものではなく 既に現在する人間の言葉 もしくは律法などではないだろうか。だからこのとき 観想の向こうに もしくは これらの言葉をめぐる両者(ユダヤ人と日本人)の行為形式のちがいを示すその間に なお不在なものとして 神は見られるのではないだろうか。いや 見られるべきではないだろうか。
ということになると思われるのです。
共同観念の違いは これを超えて しかも共同主観(たとえば キャピタリスム)の同一をとおしながらも なおこれを超えて 人間存在への観想は行なわれうる。しかしこの観想は 神の国の現在すること これに行きつくのではなかろうか。いや むしお ある転機をつうじて 神の国の現在を自分の心の中にたしかに受け取った人 かれにおいて正しく生起するように この神の国から人間の中へ到来し 人間に近づくというなら ここにキリスト者の出立はあると見るかのごとく 各共同主観のそれぞれの欠陥は欠陥として これを憎み(その虚偽を棄て) 共同主観〔の形態〕もなお歴史的に変遷するであろうと見 この動きの中に 人間の歴史(まづ自己の生涯。しかし共同自治の中で)を捉えるという以外に かれの生は存在しないと言っても差し支えないであろう。まづもし これが正しいとするなら この正しさは むしろ絶対的に内なる人に属することがらであり そこに神の似像がとどめられ見られなければならず しかもかれは 身体を伴なって この〔それぞれの〕共同観念の中にこそ おのおのその病いを癒しつつ 生きていく こう述べることは 外的に正義を口にすることにはならず どこまで行っても それはアマテラス言語にはならないであろうと考えるのです。(だから 上の(4)の事項。つまり 日本人とユダヤ人の両共同観念 あるいは 諸共同観念の違いを超えて 不在なものの現在への信仰と観想は まづ その場が見出され得た そしてそこに道はありうることは 証明されたであろう)。
またもしこれが人間の真実であるとするなら なおこの可変的・可死的・可壊的な人間の真実をとおして あの不死にして常住の神の国(真理)をわれわれは観想しなければならない。われわれは われわれの言葉を 愛を 客観化しえない・アマテラス言語と為し得ないと言うからです。
この 愛を客観化しえないインタスサノヲイスムの言葉は かれらユダヤ人に存在可能であるごとく 日本教徒にも潜在している もしくは 密教圏に顕在(?)していると言っても 牽強不会の議論にはならないでしょう。なぜなら ここで客観語を用いるなら かれもわれも 人間であるからです。神の似像が 普遍共通と言います。(これを 本質とは言いません。あるいは 本質だと言っても 似像つまり可変的な本質だと言います)。《神の似像》として指し示したのは ほかならぬベン・ダサンの同胞(祖先)ではなかったでしょうか。また 共同主観シントイスムの中に この《神 / 神の子 / 神の似像》の概念=現実がなかったとは言い切れません。《神々》の歴史が むしろ人間の歴史であり

  • それを神話として記すということは 程度と質の差こそはあれ アマテラス語概念によって普遍抽象化し ある種の観想的な共同主観として述べた。もしくは身近なスサノヲ語による物語をとおして 共同主観を観想させる目的で編まれたと言いうる

この共同観念的でもある人間ないし神々の根源というべき《神》が たとい言葉にして表わされなくとも やしろの至聖所の奥には観想されなかったとは言い切れません。(多神教 汎神論とは このようなものでありうるとわたしたちは 考えます)。
むしろこの観想は――つねに密教的であったとしても つまり 絶対唯一の神は 言葉にして表現されることは いかなる理由によってか つつしまれたとしても―― 日本人の中に 歴史伝統的であります。神々となった人間を その神々の一人ないし神の権現また時に鬼・菩薩・仏・君子等々と呼ぶことは このむしろ神の国の観想から発したものでないなら 天秤あるいは人間(日本人)じたいが 確固として存在しないでしょう。実体語も空体語もともにアマテラス人のアマテラス語として それらはむしろ やしろの至聖所に臨むスサノヲイストらの内なる真実の言葉の 社会(共同自治)的な反映であるに過ぎない。この密教圏の人間の言葉は いま顕教化されてもよいと思われます。
あるいはアマテラス人種の使うアマテラス語は 一つの方言であると宣せられてもよい。雲の上の楼閣がすでに たしかに空気のような身体をもって ただ人間の意志(時に支配欲)によってのみアマアガリしたアマテラス者の饗応の行なわれる古き館 しんきろうなる館であると知ったからには。このアマテラス者の独占資本(資本とは 人間の関係つまり愛 したがって独占支配的な愛)は いま歴史的に糾弾されてよいと思います。なぜなら それは われわれスサノヲイストの内なる独占資本(全体として日本教徒であること)の虚偽を知ったからであり――前々からも知られていたであろうものが 世界歴史的にも顕わになった―― しかも この広義のシントイスムによるやしろ(社会全体)の構造は それを捉えその虚偽(悲惨)は棄てることは 他の共同観念形態(他の国)についても 同趣の普遍共通の社会形態および問題であると いま知るからです。天秤は一方におおきく今 傾いたと思われます。アマテラス語の栄光が現われるとともに その虚偽(空体)もおおきく一方へ揺り動いたと思われるのです。
しかし この天秤の新たな回転は 必ずしも 外的な社会的解放によって成し遂げられると見るのは 早計だろうと思われます。独占本が 独占愛であったなら この愛は一人一人の主観の内にこそあれ ここから外へ出かけることは 《正義を口にする》か または 《われわれの責任ですと言ってなお 責任解除(責任を問う物言いを取り上げつつ 回避ではないと見せかけつつ 取り上げたことをもって解除されたと見なす そのように解除また解除と先送りしつつ進むような回避)をなす》ことにしかならず その意味で 言葉どおりに日の下に新しきものなしとしかならず 確かにこの虚偽を――その栄光を継承させるがためn つまり 栄光(前史)から栄光(本史)へ移り行くがために―― 内的に棄てるのでないなら 人間は人間の歴史の内にとどまらなくなる こう大言壮語してよいと思われるのです。
しかしわれわれの考えるところは これがあの無償で与えられるシントイスム(なんらな キリスト)の恩恵によらずしては かなわないことである これです。この信仰は 人間の有です。また 日本教徒のみならず 第三のアダムの時代へのすべての人びとのパスポートであります。(このパスポートは 目に見えないゆえに そう表現してもよいとおもわれます)。そうでなければ 第二のアダムは 大うそつきです。いまだ あるいは あのユダヤ人のように 第一のアダムの時代すなわち旧約聖書・律法の時代にとどまると言わざるを得ません。
第一のアダム(イザナキ・イザナミ)以来 その子ら(アマテラスおよびスサノヲ)の織り成す《アマテラス‐スサノヲ》連関体制すなわち国家という社会形態の中で その空中の楼閣性を露呈したままで 天秤体制の中に とどまると言わざるを得ないからです。この独占(鎖国)的な愛は はっきりと虚偽であると 一面で栄光であるがゆえに虚偽であると われわれは内的に語って この虚偽の癒しをその初めに帰って 問い求めなければならないのではないか。(社会科学的な分析と施策が伴なっていなければならないでしょうが その治癒と回復とは 一義的に 各主観においてであります。だから 独占資本はまづ 独占愛だと 主観共同しているほうがよい。これが 主観主義・精神主義でないことは この《正義のようなものを――主観から外に出かけて――口にする》ことはないし あってはならない。つまり 愛を客観化しえず 宗教とはなりえず つねに 身体の運動としての共同主観形成でしかないからです)。
シントイスム(なんならキリスト)の内なる人に与えられた秘蹟は ここにあると見られるがゆえにです。これ・シントイスムに対して つまりナシオナリスムによってアマアガリしたシントイスム実体語に対して 唯物史観が 空体語であったとしたなら この天秤も あの内なる人の心の回転において ミソギされなければならないと言っても 事の本質をそんなにぼかすものではないでしょう。キリストのバプテスマはここにあると思われるゆえに。神の似像はここにとどまると思われるゆえに。また 神の国の現在を 忍耐して待ち望んで来たとするなら。そしてそれが 唯物史観者(日本教マルクス派)の道に そう遠くないばかりか その内なる人において 同じ一つの道である(だから 個々に 多様でありうる)と言っても 事を茶化したことにはならないでしょう。これをわれわれは キリスト史観において唱えます。また このように明言することは はじめに《直接的な開示》とことわったとおりです。時代が変わったのだと思われます。朝から昼 昼から夕へ そして夕から 夜へは渡されずに 次の朝を迎えることになると思われるゆえに。

(つづく→2007-09-04 - caguirofie070904)