caguirofie

哲学いろいろ

#109

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第三章 日本人にとってのキリスト史観

第三節a 神の国と地上の国

前節の終わりで こころの回転に重心をおいて 日本教と呼ばれる天秤体制の変革を 捉えようとしました。
これらは 労多い仕事です。しかし 心において自由でなければ 社会的な自由はどこにあると言うのでしょうか。社会的な自由は 心の内なるやしろにおける自由(不自由とのかかわりにおける自由)をほかにして 社会主体は何をつかむと言うのでしょうか。しかし わが肢体を不義の武器(共同観念の不自由に対する不自由の武器)として罪に委ねない自由は 無償で与えられるキリストの恩恵をほかにして この地上の国のどこに見出されると言うべきでしょうか。

  • 仮りにマルクスの理論が正しい真実なものであるとして この正しさによって 自由の恩恵が与えられたというのではなく はじめに 恩恵なる自由が かれの内なるやしろに与えられたからこそ その正しい理論や行為がみちびき出された。しかしそれが 政治的な社会解放によって初めて 自由人の連合なるやしろが築かれると言ったとするなら――そうではないが 仮りにそう言ったと解されるなら―― それは 恩恵があとで 正しい理論や行為によって 付随して来ると言っていることになる。時間的・過程的にはそう見えるかも知れませんが それでもその時にも そう解する人は 歴史の過程というものを アマテラス語客観において見ていることになる。つまり歴史は まづ主観のうちにこそ そのまづ一生涯の期間にこそ すなわちその身体〔の運動〕を離れないで 精神的な理論と行為によっても 見出され築かれるということでなければならない。

だからわれわれは 心において 人間の意志によっても これを欲しなければならない。そのために走らなければならない。そうでなければ 第一のアダムの時代からの罪の身体は 滅ぼされることなく 古き人が脱ぎ捨てられることなく これにもとづいて魂が生きている すなわち眠ったままである。あのこころの回転(――律法の栄光とそれによる正しさ また同じくそれに対処する上での虚偽 これら両者の天秤の回転にも似た新しい生の局面の現出――)は かなわないことになる。むろん 走りうるのは つまり輪がよく回るのは それが丸い(つまり まづはじめにあの恩恵を受けた)からであって よく回るから丸いのではなく 聖霊バプテスマを受け取ったから 走りうるのです。日本教徒は いま唐突に言って これにいちばん近いとも言うことができると思います。
これは 脅迫状でしょうか。これは お世辞でしょうか。それとも ほかに 神の似像の内にとどまる真実 シントイスト・スサノヲイストの真実は 見出されるべきと言うべきでしょうか。
第一章第二節の終わりに次のようなパウロの言葉を引きました。

しかし わたしたちの正しくないことが神の正しさを明らかにするとしたら それに対して何と言うべきでしょうか。・・・またもし わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて その栄光を増すのであれば なぜ わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょうか。それに もしそうであれば 《善が生じるために悪をしよう》ということも言えるのではないでしょうか。

それは ここで 前節のイザヤ・ベン・ダサンの《日本教について》の中に 次のような指摘があることを思い出したからです。それは まづ

すべてわれらの義は 涜れた布の如し。
イザヤ書64:6)

というイザヤ書の一句を引いて これを 

《自分の言葉は正義だ 私は正義を口にしているのだから・・・》・・・。しかし そう考えたその時に その人が涜(けが)されるのだとイザヤは申しました。
山本七平日本教について 〈本田勝一様への追伸〉)

と註解します。文脈からは 著者の意図は別のところにあると言わねばならないのですが これに限って触れてちょうど われわれの心に語る真実とを対比させてみるならば こうなると思います。
すなわち 《同胞のためならば キリストから離れさせられて 神に見捨てられてもよいとさえ思った》パウロは ここに 《正しさを観想し 偽りを棄て 真実を語れ》と説きます。そしてイザヤは 《人間の正義は使用ずみのアンネ・ナプキンに等し( All our righteousness are as filthy as rugs. )》という意味のことを言ったことになるということです。ここまでつきあっていただいた読者は もうおわかりのことかと思いますが パウロは――アウグスティヌスに倣って言えば―― 《われらの虚偽を 内的にでないなら どこに棄てようか》という意味のことを指し示したはづです。
したがって ベン・ダサン(山本七平)の著書の中のこのイザヤの一句は――その意図はもちろん別のところにあるですが―― 《正義を口にする 正しい行ない〔だと言う〕》日本教の一つの行き方 これを非難するということは 内的に虚偽を棄てよ そしてさらに 同じく内的に真理を語れということでないなら どこにその神の言葉の分有があると言うべきでしょうか。
いささか見当ちがいがあるかも知れませんが 《日の下に新しきものなし》(伝道の書1:9)という意味でも ベン・ダサンはこれを論じているようであり たしかにこの一句も 

《見よ これは新しいものだ》と言われるものがあるか それはわれわれの前にあった世々にすでにあったものである。
(伝道の書1:10)

と言い継いで 共同観念の共同観念性(つまりたとえば 無常性といったその古き館のいわゆる輪廻転生的な現実のかたち)を言っているのであり しかもこのことは 人間が神の似像にとどまるという・そして神は常住であるという観想(つまり このような共同主観は以前からあった)を述べているものでないとしたら 先のイザヤの一句《人間の正義は涜れた布切れの如し》という観想も 空しいものとなるはづです。
《伝道の書》はさらに述べます。

そこで わたしはわが手のなしえたすべての事 およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき 見よ みな空であって 風を捕らえるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。
(伝道の書2:11)

しかしここでも 第二のアダムの十字架の木の船を回転軸として 《風》は《聖霊》であって この聖霊のわれわれに宿るとき われわれが神の似像にとどまるならば かれの常住性・永遠のいのちは われわれに与えられるのである。それは 共同観念現実の中のただ条件反射的に生きる無益な時間的なことがらは 人間の生を空しくさせるが しかし 共同主観へと心が転回した有益な時間的な経験は 人を癒しその主観形成を助けるのであると言う事で無いなら 何を意味表示するのでしょう。
神の言葉(キリスト)は 人間となられたのです。それは この時間的な生を生きることによって 人間が神の似像のうちにとどまり ここから神を観想して生きる そしてそれは いまこの生ける現実の中で 空しくされたその病状に応じて 時間的に段階的にその虚偽の病いが内的に癒されてゆく このことの初めとなり模範となられたのでないなら 人間はアマテラス語といった普遍概念を持ったことすら空しい 言葉をしゃべる動物にしか過ぎなくなるということにはならないでしょうか。
もしいま何の紹介もせずに 超越的な批判がゆるされるとしますと イザヤ・ベン・ダサンの説には この時間的・歴史的な過程への視点が欠けている。言いかえると 実体語と空体語の分別を説き明かす中にも なお これらを抽象普遍的な思弁において つまりアマテラス語〔といった或る律法〕にもとづいて 歴史が認識される嫌いがある。こういうことになりはしないでしょうか。《正義(たとえば 大東亜共栄圏の樹立)を口にすることは その人じしんを涜すことになる》 あるいは この《人間の正義によるあやまち これに対する責任(戦争責任)は わたし〔たち〕にあると言うことは――つまり ごめんなさいと言うことは―― その責任の解除になる〔とわたしたちが その無意識の前提の内に思っている〕》といった日本教の欠陥とも言うべき日本教たる所以は ほかの諸シントイスム(各国の共同観念)の歴史的な進展とともに 具体現実的にそしてそれは常に 時間的な存在たる人間の・このわたしの主観形成の中で 虚偽が棄てられ病いが癒されてゆくという形の中でしか これを取り扱うことは 不可能だということを わたしたちは言いたいためである。

  • 日本教の欠陥といったことは ベン・ダサンが言っているのではないようである。一つの世界の価値自由的な認識なのだと見ているようである。

しかしこのことは 我田引水と見られようとも 偽の使徒と見えようとも わたしたちは あの十字架上のわたしたちの魂の死からの転生 すなわちキリストの聖霊によるバプテスマを受け取ることによって――なんなら ほんとうのミソギによって―― ただちにその虚偽の病患は 根源的に 癒されたのだということでないなら これにもとづく時間的・段階的な病いの治癒も まったく空しいものとなるであろうことを指し示しています。
(つづく→2007-09-02 - caguirofie070902)