caguirofie

哲学いろいろ

#108

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第三章 日本人にとってのキリスト史観

第二節 共同主観としてのシントイス

わがくにのシントイスムには 〔必ずしも明文化されない密教的な〕共同主観(至聖所・やしろの奥なる神の宿るとされる所に臨む全人格的な心)とそして 一般に共同観念(ムライスム・ナシオナリスム)とがあると言いました。共同観念も その原則的な行為形式といったものとしては 律法などというように 成文化されて認識されているというわけではない。それはむしろ それぞれの場・情況において 見えざる〔共同〕観念の水路といったようなものとして(わが田に水を引き分け合う水路といったようなものとして) その意味での常識であり現実となっているというようなことです。
特にこの共同観念的なシントイスムを捉えて 日本教(イザヤ・ベン・ダサンあるいはつまり山本七平)といった概念が 批判的・発展的に提出されてもいます。また 無教会主義の内村鑑三は 二つのJ つまり イエス( Jesus )と日本( Japan )とにかれは仕えるというようなことを言いました。さらに 言葉としては(ある文脈の中でですが) 《わたし自身 兄弟たちつまり血縁上の同胞のためならば キリストから離され 神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。・・・》(ローマ書9:3)とパウロも言いました。
これらについての観想と思惟をわたし自身 いま用意しておりませんが こういった点について次には 前節の基本的な方程式のあとを受けて 考えてみたいと思います。また これについては 日本人の唯物史観者も それを公にしているか否かを問わず 思索を行なっているものと思われます。共同観念現実から出立していると自負するキリスト者は 何とかとしてこれに答えなければならないと思うのです。


わたしはまづ ここで 必ずしも勝算があっての議論ではないと自覚していますので はじめに ただわたしの提出した人間存在の概念 すなわち《アマテラス‐スサノヲ》連関者なるわれわれ神の似像という主観の構造 これを明らかにしたことで またわれわれは常にこの神の似像の内にとどまり それにおいて歩むということで 勘弁ねがわなければならないかも知れません。これをまづ おことわりしておきたいと思います。


ところで わたしたちは 腐敗する身体の重圧のもとに精神は その初めの浄福のすがたから墜落し 虚偽を持つに到る。あるいはその主観の構造に損傷をこうむると言われるとき 何によってどのようにそうなのであるか  これについては考えてみる余地がある こう思われ この点から入ってゆこうかと思うのです。
こう考えるとふたたび これまでの一般論すなわち あの空中の権能とそれの差し出す蜃気楼という栄光と虚偽 これを自治共同する律法・アマテラス言語 罪・恥の自覚 それによる人間化とそして同時にこの律法による魂の死による内なる人の時の充満 そうして《エリ エリ ラマ サバクタニ》というお声を聞きこれをみづからも発するときの回心 これを通過しての新生 こういった方程式が想起されるでしょう。われわれは これ以上のことを言えないのでしょうか。
虚偽を棄て真理を語れと言われるとき 人間の内省による真実の言葉(アマテラス言語やスサノヲ語さえの以前の心の秘所なる言葉)は 語られるべきなのか あるいはそれは いくらか神の言葉つまり真理に似ているが それが如何に似ていないかを考察するのに躊躇すべきではないというように 天使の存在をこそ欲するというほどに ここで人は 沈黙(祈り)をこそ行為するほかにないでしょうか。それとも このような物言いは ひとり高し ひとり清しとする人間の不遜でしょうか。


断片的に思い浮かぶまま 綴ってみたいと思います。
先ほどの《日本教》というシントイスムの捉え方 これについてはこう思います。(イザヤ・ベン・ダサン《日本教について》等)。
ベン・ダサンによると 日本教は 実体語と空体語との平衡感覚が織り成す天秤体制の世界であると言います。《まづ人間すなわち日本人であれ》を基本的な支点(大前提)として ある経験的な事実にかんする実態を把握する認識の言葉 これを《実体語》(たとえば 《自衛隊は必要である》)とし しかもわれわれ日本人は必ずしもこの実体語のみによっては 事をとらえるということを為さず なぜなら それは 事実の認識とそれを認識する主体つまり当の人間(その存在)を認識することとは別であって 実体語による認識は あたかも天秤の一方にその当の《もの》を載せたにすぎず 人は(日本人は) もう一方の皿にこれを計る分銅ともいうべき《空体語》(たとえば 《自衛隊違憲だということを言える状態も必要である》)によって その支点を大事に(または中心と)するというように 平衡感覚を保って生きているという意味のことのようです。
また 時の変化とともに 実体語の虚偽が明らかとなり これに対する空体語の分銅(そのような主張・勢力)がいよいよ大きくなったときには 何ごとか事件をきっかけとして この天秤が回転して また新しい別の天秤体制が作り上げられるといった過程であるというものです。
わたしはただちにこれを批判するとしますと(批判点だけを述べるとしますと) これはあくまで 社会(キュリアコン)の中のアマテラス圏をその視点にとっているということです。言いかえると 一見 《実体語》は アマテラス語〔となったスサノヲ語・つまりアマアガリ=出世したそれ〕であり 《空体語》は 〔スサノヲ圏の新しい動きとしての〕スサノヲ語であるように思われますが わたしたちの視点からは これら両者とも なおアマテラス圏の領域に属している。つまり 実体語も空体語も いづれもアマテラス語であると見るのです。
つまり 天秤体制とは このように 実体語と空体語という両様のアマテラス語(これを 二枚舌といいます)を駆使して A圏主導の(つまり ナシオナリスト=シントイスムによる)A‐S連関体制ないしは そのA圏の統治方式じたいを指し示している概念ではないかと考えるのです。
シントイスムにも 共同主観(その意味でスサノヲイスム)はありました。それは あたかも《自衛隊》が シントイスト=ナシオナリスム=キャピタリスムにもとづく共同観念世界にかんする社会形態つまり国家(ないしそのA圏)を 視点として生まれる概念=現実であるのに対して――だから 靖国神社の問題も 同じ趣旨のことがらです―― 言わばスサノヲ圏本来の自衛力ないし一般に共同自治の問題が 当然 共同主観的に扱われる領域は存在する こう思われるからです。《自衛隊》にかんする実体語と空体語とによるアマテラス語は スサノヲイストのスサノヲ語が表現する《自衛力・生存権など》と 別であるか または――国際関係とのからみから言って―― 互いに分離して連関しあっているかである。そして前者が後者に対して いわば顔蔽いのように かぶさっているのが 現状ではないか こう思われます。
つまりこれは スサノヲイスト共同主観の 共同観念アマテラス語とのかかわり一般にかんする 現在の歴史的な実情の一つの形式であったものでもあります。まづ このような実情とその中の動きや流れ――この流れへの視点が現実なのだとわたしたちは言います――が 一般に史観を構成するものと考えるんは 自明のことでしょう。またわたしたちの観点からは このシントイスム共同主観の中に ないしこれをとおして キリスト史観を見なければならない。さらにそして唯物史観も これと同じ一つの方向にあると考えるのでした。
靖国神社の問題は 社会形態の内的な問題ですが 同じ趣向で 自衛隊・一般に軍隊は その外的な・したがってインタナシオナルはインタムライスム=インタキャピタリスムの問題だと考えられます。したがって シントイスム共同主観は 普遍的な史観につながった問題を孕んでいる 言いかえると 各共同観念(ナシオン)における 〔普通名詞としての〕シントイスムの たとえばわれわれの言うキリスト史観にかかわった問題であると思うのです。こう 大きく視野をとってよいと思います。


こう考えると 問題は このような社会的な解放(いま 解放と言います)が 政治的な社会制度の再編成によるものなのか あるいは常に内なる人の革新によるものなのかが 争われることと思います。われわれはこれにかんして 後者だと言い切ってよいと思います。
前者すなわち 政治的な社会解放は その付け足しであると言い切ってよいと思われます。人間の歴史を愛するというとき――そしてそれは むろん 神の国にわれわれの歴史があると考えてのうえですが―― 自己を愛しまた具体的なかれ または かのじょの存在を愛することはあっても われわれはこの愛の客観化にはなじまず――つまり別様のアマテラス語を 政治的な社会解放〔の像〕として 用意しようとするものではなく―― つねにスサノヲ圏にとどまる つまりインタスサノヲイストとしてしか生きられないからです。わたしは この形相には固着すべきだと考えます。これに観念する(ここまで あきらめる=明らかにしてゆく)ことは われわれの内なる人の虚偽を 棄てる道であると考えます。アマアガリ つまりスサノヲのアマテラス化は ここにあるとせねばなりません。
これは スサノヲ圏の住民に単に取り入ろうとしていることなのでしょうか。自己の推薦状を書いているに過ぎないでしょうか。しかしわれわれは これを聖霊の義と力として――シントイスムをとおしてさえ―― 受け取ったとするなら なぜまだもらっていないと言って その自己を誇るべきなのか。共同観念から出立することは その史観を生きるとは あたかもここで神によって生まれた者というように この時代を時代とすることなのではないでしょうか。

  • まだ このあたりで 神を出していますね。(20070831)

そのためには ムライスム・共同観念を用いることさえ出来る。しかもこれらの道を 新しい社会制度の像として その形相に〔は〕固着するのではなく すなわちそのように 社会・やしろとしての形相への愛を客観化し 主観共同化しようとするのではなく この道に 謙虚なる模範としての人間を見まつり この人の形相を愛し固着して生きなければならない。このこころの回転は 重要であると思います。天秤体制の変革は この内なる人において起こると思います。
(つづく→2007-09-01 - caguirofie070901)