caguirofie

哲学いろいろ

#107

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第三章 日本人にとってのキリスト史観

第一節 キリスト者の生

キャピタリスムないしデモクラシなるそれぞれ一定の共同主観が 必ずしも内なる史観の全体でないとしたら 日本人にとって〔も〕残された共同主観ないし史観の候補というべきものは 一つに 第一章第三・四節に触れたシントイスムであるだろうし 一つに 日本人も隠然とあるいは公然とマルクシスムの洗礼を受けているとすれば 第二章第七節に若干 触れた唯物史観であるでしょう。
キリスト史観は すでに詳説したように これら二つの共同主観形式に そのまま取って代わるべき候補であるとは考えず 主観の内なる人の中で それらの根底にあるものであり それらを止揚して生かすと考えるものであったのですが いま これら二つの史観としての候補ないし現実的には先行する形態を 考察すべき対象として持ちながら 全般的に日本人にとってのキリスト史観を考えてみたいと思います。
またむしろ シントイスムも唯物史観もそうであるように 共同主観は 共同観念現実(ナシオナリスト・シントイスム ないし ナシオナル・ソシアリスムなど)とのかかわりをこそ 人間関係・社会関係的には 観想および行為の対象とするわけでした。(日本では 共同観念現実は ナシオナリスト・キャピタリスム またはそこに現われるナシオナリスト・シントイスムであり 共同主観シントウも唯物史観も これに対処します。共同主観シントウというとき それは必ずしも 史観ないし理論として明示的に表現されていないでしょうから または いないでしょうが 一般に日本人にとって 市民生活一般とその思想というほどのことを指して言っています)。


神の似像たる人間の存在をわれわれは《アマテラス‐スサノヲ》連関と捉えたからには ここで シントイスムはすでに直接的なかかわりを持っています。また 国家を一つの社会形態とするシントイスト・ナシオナリスムとしての共同観念現実 つまり 《アマテラス圏‐スサノヲ圏》連関体制とも大いに ともあれ つながりを持ちます。さらにまた シントイスム=ナシオナリスム=キャピタリスムからのアマテラス言語(支配的な共同観念 また律法としてはムライスムと見た)に対抗する意味での唯物史観は ソシアリスムないしコミュニスムなるいま一つ別のアマテラス言語(なぜなら スサノヲ語の外的な行為による社会的解放を視観し理論する)として 同じくこの《A者‐S者》連関なる人間存在の把握と大いにつながりを持ちます。
大体の構図はこのようであるのですが われわれはまづ このような幾何学的な整理に寄りかかってはならないように思われるでしょう。殊に 情感の共同性といったムライスムないし共同観念の優勢な現実である日本においては この情感(時に情念)の現実とも 上の幾何学的な整理との兼ね合いにおいて 正しい関係を観想しなければなりません。これが 構造的・過程的な構図であろうと思われます。
キリスト者はまづ あのやしろの望楼に立つようにして ここに出発点を見出します。血筋によらず 肉の意志によらず 人間の意志にもよらず 神の言葉に寄り頼むようにして 内なる人のあの回心を経過してのように まづ自己を全体としてこの史観として保っていることでなければならない。またこのとき 神の言葉の分有主体としては あたかもキリストに似て神の貌であるかのごとく 神の国の外交官として内なる人・内なる人間の言葉においては 自己がすでに告知され受け取ってのようにその神のみ心を告げ知らせることを願い欲し(そのときかれは 出立しているでしょう) また当然のごとく人間の貌としては この共同観念現実の中にあって しかし魂の死を回転させて生へとみちびかれて生きる新しい人であるようにして もはやわが肢体を不義の武器として罪には委ねないといういのちにあって 欠陥を憎み人を愛するという史観を生きる。
まづ上に述べた構図が見えてきたなら つねに自己の同一にとどまる知恵を愛し 共同観念現実の過程において 主の霊にみちびかれてのように また弁護されてのように 人間を愛さなければならない。そうするとき かれは 上の構図が 日から日へ 動くのを見るでしょう。自己が空しくされつつも 自己が神の似像の内にとどまって歩いているのを むしろ可感的に確認するはづです。ならば 共同観念現実の過程的なものごとが むしろ一つひとつ 自己がそれによって生き動き存在する神の言葉の証言であること知ります。神の言葉のむしろ自由に隷属する奴隷として(人間の自由はここにあるとさえ言って) 社会的な役割分担の中で何を為すべきかは むろん自由であり その位置や立ち場において この史観を 主観共同化することへと向かいます。かれは この世の共同観念に従いつつ かつこの世に倣うなと言うかのようにして 出立して自由な道を歩き始めます。
自己の古き人は あの十字架をとおして つまり魂の死とその死の破壊からの神による誕生をとおして 死んだと理解するがゆえにです。ここで 信仰の告白はもはや必要ではありません。なぜなら このような信仰の主観内的な構造は あの回心の以前であれ もはや現代人の誰にも与えられており うっすらとであれむしろ可感的にこそそれを承知しているからです。主観共同化の過程をこそ大事にします。天使の存在をこそ欲し 愛そうとつとめる相手に 神の像・神の言葉が臨むようにと祈ります。この力を無償で与えられてのように スサノヲイストの史観 そこに聖霊の宿るわが身体を 日から日へ過程させます。
この巡礼の旅路が 愛の勝利へとみちびかれるでしょう。この愛の勝利を誰も 疑ってはなりません。
しかし この共同主観は シントイスムにもあると われわれは考えるのでした。(イザナキ・イザナミの愛・婚姻の形式。男も女も その人間性の中の男が女より先に 《あまにやし えをとめを》と言うということ。しかしそれは 女がむしろ先に 共同観念しんきろうの虚偽を棄て 心に真理を語ることによって スサノヲ者=スサンナの愛を自己のもとに生起することを確認する。そしてこの女の側の自己還帰そのものを男が 自己のもとに受け取りつつ 上の言葉を発し語りかけるのでないなら さらにまた 男が同じくともに 虚偽を内的に棄てて心に真理を語っているからこそ女もそのようにあの至聖所の前に立ったというのでないなら いわゆる封建市民的な対関係形式としての男尊女卑の考えと何ら違わないようにも見えるというのは 真実であるでしょう。
唯物史観は これが ソシアリスム・コミュニスムの社会革命の環境変化のあとに来ると言っていると思います。
また 唯物史観は 神の言葉の証言であったとして 類型的には同じ共同主観であると捉えたのでした。要は共同観念現実の捉え返し これです。
人を愛し 敵を愛するところに この共同観念現実の中に 時の充満を作ります。《わたし》が その自己の中に時の充満を作り それを通過してきた者のように 相手にもこれを備えさせます。キリストがこれを審かれます。かれは審きたまわないように われわれを わたしと相手とを それぞれ神の似像の内にとどめ歩ませます。わたしが相手を 愛し その愛を愛し これにとどまるなら わたしは神を見るのです。なぜなら 神は愛です。神は真理であるなら かれはわれわれを自由にします。この自由が 主観共同化の核です。ここに愛の勝利があります。
愛は 欺かないでしょう。虚偽から自由です。虚言を言うときにではなく 欺かれるとき それは 虚偽となります。愛はこの虚偽から自由です。だからかれは つまづきません。つまづきが無いということは 愛が生きているということ 愛が生きているなら 史観は進みます。史観が進むなら 共同主観は前進します。共同主観が前進するなら かれは自由人です。この腐敗する身体の重圧の中にあってかれの魂は 死から生へ変えられてのように 罪の中にあってなおかつただしい人として 生きます。ここに神の国が見られるでしょう。この歴史が 人間の言葉 人間の歴史です。

  • むろんここから やしろの形態の再編成へとも向かっていることは 言うまでもありません。しかしその逆ではない。

人は 何ものによっても この神の言葉・キリストからもはや離れさせられないでしょう。生命の書にその名が記されたキリスト者です。第三のアダムの時代は ここを通り抜けてのように訪れることになります。この力を力として。
(つづく→2007-08-31 - caguirofie070831)