caguirofie

哲学いろいろ

#106

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第二章 観想としてのキリスト史観

第七節 唯物史観は キリスト史観の証言である

この章ではわれわれは 必ずしも新しいことを述べることをしなかった。前章の補足に終始したかとも思われる。
一つの通史として 理論的に整理して この観想としてのキリスト史観を述べることも よいかともまた必要かとも思われるが いまもし ミネルヴァのふくろうは 夕暮れ時にやってくると考えるなら そのように後日を期したいと考える。
わたしたちのいま頭の中にある事柄は むしろ日本におけるキリスト史観の有効性(わざわざそう言うのは 変な話だが)ということに限定されてくる。観想と行為にかんする理論的な・そしてだから一般的なことがらは ある程度 述べ得たと考えるが また 第二部等において 社会観といったことがらも 試論としてある程度のことを見ることができたと思うが 問題は 日本における思想・日本的に表現されきたった共同主観との兼ね合い あるいはさらに もっとどろどろしたかたちで やはりあの共同観念現実とのかかわりを より一層すっきりしたかたちで 理論もしなければならない。これは 次の一章をまづ あてたいと考える。
ここで その前に ごく大雑把に見ておきたいと思うことは 第三のアダムの時代への突入にかんして 人間の歴史の中におけるその証言となるべき事柄 これである。


はじめに断わっておかねばならないことは この第三のアダムの時代と言うのは 第一のアダムのそれから または少なくとも第二のアダムその人から 分かれてしまうということではないといった点です。種が変わるとは言うものの 便宜上 分けるというほうにむしろ十点はある。少なくとも 第二のアダムの時代から その変化は可能となっており むしろ為されてきたと あらために言ったほうがよい。ただ しかし この原理に照らしてこの原理の力によるなら 時代として世界として 一般に新しい種が現われるごとく 歴史は変わるであろうと言おうとしている。われわれは その証言を尋求しておくこともよい。


われわれはこれを かれもユダヤ人であったごとく カール・マルクスその人に求める。すなわち 唯物史観という証言である。
人間の理論の中で この唯物史観という証言が現われて来なかったなら キリスト史観はまだ新しい時代を切り開いてゆくことはできなかったであろう。かれマルクスは 荒れ野に叫ぶ声 すなわち バプテスマのヨハネであった。
かれがいなかったなら 近代市民らの人間の理論は その知解行為による理論的な精緻化という栄光とその反面での弊害を克服できずに 終わっていたであろう。かれは ともあれ史観を用意した。マルクシスムの洗礼 つまりヨハネバプテスマ を抜きにしてゃ 神の言葉の証言が 神の言葉じたい永遠であり生きたいのちであるとしても 暗きに葬られ密教圏にしりぞいていたのである。第一のアダムの時代からつづく預言者の系譜が ヨハネで終えられたとするなら 人間の理論の系譜は――人間の理論が それじたい何ものにも優るかのごとく支配的な共同主観を提供する(つまり 共同観念が共同主観を導くのでないが 第一の幕屋=理論が 至聖所=史観を あたかも逆向きに導く)時代の系譜は―― マルクスを最後として(つまりその世界史的な普及を最後として) 新しい時代に入ると思われる。われわれは ここで 第二のアダムのもとに 帰るのである。
われわれの全人格が 神の似像として かれキリストに似る者となるであろうとして かれと父とから聖霊なるいのちを受け取って 律法(記憶)の時代および理論(知解)の時代を離れるがごとくして 新しき人間(愛)の時代へと入るのである。神 これをなしたまうならば これは人間の有・人間の歴史である。
唯物史観がその外形(理論的な洗礼)を取り除くようにして ふたたびキリスト史観が内なる人(聖霊による洗礼 なんなら ミソギ)において すべての人に与えられる。すでに与えられていたものが ここによみがえるのである。ヨハネによる水の洗礼(教会)が 人間の理論による洗礼(マルクシスム)という洗礼を受けて 聖霊による洗礼(たとえば 無教会主義)を受け取る または ふたたび確認する。すべての人に キリストがその父と子とから発出される聖霊が派遣されるのである。これは 神の約束なさったはかりごとであり 神の国の歴史的な成就である。この歓喜の中に――この歓喜の中に永遠(とわ)なる歓喜を問い求め―― 死すべき人間は すべてのものを用い享受する。善く欲するものを獲得し 愛するものは現在するであろうと言われる過程を捉え 悪しく欲するものは これを欲するも その能力によって ついに得られず 憎むべき欠陥は癒されて 愛すべきもののみが残るであろう時代へ――原理的にそのような時代へ―― 入ることになる。
これは その原形ないし外形において すべて唯物史観が説いたものであり――これらすべて唯物史観が説いたものである―― それは われわれの証言である。唯物史観がそのとき 人民裁判を説くなら キリスト史観は キリストは審かないであろう しかし キリストは審くたまうであろうと言う。これらすべて 内なる人に属し 魂の死が癒されるか この死を身体の死とともに・しかしその死が死なないというように人間の第二の死へ移り行くかは みな主観形成の内なる心に属している。言えることは 第二の死を用意する(かれ自身は肉の死からは無縁である)悪魔を キリストが征服したまうたとするなら その征服の手段として 十字架の死という義によってこれを為されたとき かれの死は 罪なき者の死として 人間の死の二重性を持たれたのであり 多くの人がこの一人のお方を そのかれらの死においれ 保持するであろうのであり そのとき かれキリストは人を審きたまうであろうのである。
これが 現在する将来の栄光として われわれのいまの主観形成に属していることは なお内なる人の秘蹟に与えられているのである。マルクシスム〔の裁き〕も 類型的にそのような秘蹟として 語った。もしこの外的な裁きを免れたとしても 心の内なる神の言葉による審きを免れ得ないことは 神の力の全能性をあらわしている。いったいに ご自身の造られた者を審きたまわない・また審き得ない神とは どんな神であろう。唯物史観の国ぐにが この地上に現われたことは 神のはかりごと 神の言葉の証言でないなら 人間の理性は何を見るであろうか。だから 唯物史観が 一定の共同主観の支配的な社会(キャピタリスム()に対抗して 一定の共同主観による社会支配の手段(ソシアリスム)として立ち上がった歴史が解消され つまり同時に もう一方のキャピタリスム社会が同じく解消されるなら 一定の固定的な共同主観のない時代 つまりわれわれの言うキリスト史観の時代に人は入るというのは 人間の歴史であるにちがいない。
二つの世界が解消されて 全世界がキリスト史観の一元的な支配に服するというよりは 全世界がキリスト史観によって 人間の歴史を 人間の言葉によって持つ時代である。キリストが征服なさるのは 内なる人にその死の手を差し伸べる悪魔とその虚偽であって 外なる人においてはただ模範となられたのであって そのように人間の内において人間を生かしたまう方であるに過ぎない。あたかも人間は その前史を終えてのごとく ここに本史が始まるというように。これは また 各個人・各主観の内なる一生涯において あの栄光から栄光へ変えられてのように生起する歴史であるにほかならない。(つまりまづ 主観の歴史である)。類としての人間の世代的・時代的な永続性を見るよりは まづこの内なる一人の主観の永遠のいのちを観想するべきである。前史から本史へは そのように把握されなければならない。そしてこれは 神の言葉の証言である。誰も マルクスを疑ってはならない。しかも人は 神の言葉・キリストに属(つ)かなければならない。
われわれは 神的権威(聖書)に帰りつつ しかも後にあるものを忘れ 前にあるものへ 心を傾注して 手を差し伸ばしつつ その主観を 理性的な観想と行為によって みちびいてゆくべきである。時代を時代としようと。(ただし 神の言葉の証言が 神的権威としての聖書だけではなく 上(前節)にアウグスティヌスの文章にみたとおり 天と地とそのあいだにあるすべてのものが――自然や人じたいも 或る種の見方で 書物であります―― その証言である)。
(つづく→2007-08-30 - caguirofie070830)