旧約聖書と新約聖書
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あらましを述べます。
1. 神の信仰は アブラム(のちのアブラハム)というひとりの男から始まりました。
《祖先の地を去って〔どこへかは明らかにされず〕行け》というお告げ(?)を聞いて これをおのが神の心として受け容れ そのように行動しました。
2. 信仰は 思考ではなく――そのヒラメキのあと思考をもおこないますが 思考に発するのではなく――或る種の賭けのごとく無根拠を根拠とするものです。あるいは 義無きを以って義とするところに成ります。
3. 或る日アブラハムは たぶん神から その長子のイサクをいけにえに捧げよという声を聞きました。悩みに悩み苦しみ抜いた末その声に従おうとしたとき かれは《思考ないし人間の能力と努力とを ある種のナゾとしての神の心よりも先に立てることをしない》という信仰を たぶん神からみとめられ もうよい いけにえは要らないという結着になりました。
4. つまり 思考としては 《ひとは他人をも己れをも ひとをころすことはしない》というヒラメキとしての命題を得ました。
5. これを のちにモーセは 人びとの集団にとっての秩序を重んじるところから 《なんぢ ころすなかれ》という否定命令(禁止法)としての命題に表わしました。モーセ自身は アブラハムと同じく 理性による根拠(あるいは人間の義)をナゾの信仰に先立てることはしない人間でしたが 社会の秩序のためには ナラハシやオキテないし――人間が思考し判断して取り決めるところの――法律が必要だという考え方であったわけです。
6. モーセの法律は なぜか日本語では《律法》と呼ばれます。このいわゆる旧約聖書にあっても 信仰が思考よりも当然のごとく優先されるという《考え》は記されています。
▲ (ハバクク書 2:4) 〜〜〜〜〜〜〜〜
見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。
しかし、神に従う人は信仰によって生きる。
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7. 信仰は 言わばわれわれ一人の人間にとってその心の奥深くにある思いを超えた思いのようなこと(場またはチカラ?)として 《固有の時》です。ダヰデというひとは こううたいました。
▲ (詩編 2:7) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
主の定められたところに従ってわたしは述べよう。
主はわたしに告げられた。
お前はわたしの子
今日、わたしはお前を生んだ。
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8.イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。
▲ (イザヤ書 61:1−3)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これは主がわたしに油を注いで
貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね
わたしを遣わして心の傷める者をいやし
捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。
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9. 話を端折りに端折って すでに新約聖書に到ります。
アブラハムからニ千年ののちでしょうか イエスという人が出たというわけです。
イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
▲ (ルカによる福音4:17−21) 〜〜〜〜〜〜〜〜
すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてある箇所が目に留まった。
主の霊がわたしに臨み
油をわたしに塗った。
主がわたしを遣わしたのは
貧しい人に福音を伝え
捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。
(つまり イザヤ書61:1−2)
イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは
――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
実現した。
と話し始めた。
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10. アブラハム・モーセ・ダヰデ・イザヤそしてイエスまで 神は同じひとつの神です。ただし 旧約のエレミヤ書31:31以降には 《新しい契約》のことが書かれています。引用をやはり端折りますが
(あ) 神は人びとの罪をもう覚えない。忘れる。
(ひとはゆるされる)
(い) 神を知れと言ってひとは人におしえることはなくなる。
(オシへ・律法は要らない)
という趣旨が告げられており このくだりは 新約聖書でも へブル書8章に取り上げられ確認されています。
▲ エレミヤ書31:31〜
http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html
▲ へブル書 8章
http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html
11. つまり《新しい契約》は イエスのときにイエスの登場によって成就されたという見方です。
このことは アブラハムからの同じ神ですが しかもユダヤ民族だけの神ではなく そのふるい顔を棄てて みづからを外へも開きいと高きところなる普遍神へと揚げたことと捉えられます。神がみづからを揚棄した。と。
12. その普遍神を指し示したイエスは イエスという人間であると同時にキリストとよばれる神の子でもあると想定されるようになりました。
13. つまり エレミヤの預言によれば このキリストという神の名は どうでもよいということになります。
14. つまり 神は 普遍神ひとつであり――その名前は どうでもよく―― その神とわれとの関係は アブラハムにとってのごとく ナゾの信仰であると考えられます。信教・良心の自由と言われるごとく・あるいはそれ以上に まったく自由であると考えられます。
15. これが 聖書のこころです。