caguirofie

哲学いろいろ

聖書とは

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

矮小な神とは

 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa9021828.html

奇跡を問いたりする神のこと。
例えば、ガラリア湖の上で空中浮揚し裸足でスタスタと歩いて渡るところをガラリアの村人達に見せたりしたとゆー神。
死人の体に触れその死人を生き返らせたなどとゆー神。
盲人の顔を一撫でしてその盲人の目を見えるよーにしたなどとゆー神。
5つのパンと2匹の魚で5000人の人間を満腹にさせたなどとゆー神。
ゴルゴダの丘の上で磔になって死んだが、3日後に生き返って神になったなどとゆー神。
矮小な神とはおよそこんな神のことをゆーのではないでしょうか。

 

bragelonne

回答(2)

 聖書記者が書いたことのすべてが その主人公であるイエス・キリストの言葉と行動であるとは限らないでしょうが いまは 書かれているとおりのことにもとづいてどう捉えるかを考えてみます。


 1. そもそもこのイエスの登場するいわゆる新約としての聖書は 旧約聖書のつたえる神とまったく同じ神であるが ただしそのヤハヱーならヤハヱーなる神は すでに――エレミヤ書(31:31以降)で――自己を揚棄すると語っています。新約は それを継いでいますし その神の自己揚棄をイエスの登場によって成就したという立ち場から書かれています。

 2. あたらしい契約には ふたつあります。
 その前になぜ神がみづからを揚棄するかと言えば 旧約では ユダヤ民族のための神であったからです。(イエスさえも 自分はユダヤとは別の民族には話をしないと言っています。そういう姿勢をつらぬいた)。

 ひとつは アダムとエワからの人類が一人ひとり犯した罪を もうすべて覚えない。わすれる。と神が語った。

 ひとつは もう人びとに 神を知れと言わないし 人びとも互いに神を知れとは言わないようになる。という契約を語った。

 3. すなわち ヤハヱーなる神は ユダヤ民族のための神であることを じんるいすべてのための普遍神としてある高みにみづからを揚げて 棄てた。

 その普遍神であることも――その神を知れと言わないし 人びとが罪を犯す存在だとも言わない(そうであっても その罪を覚えない。わすれる)と言ったからには―― 言わば隠れたる神(デウス・アブスコンディトゥス)であることになります。

 神なら どの民族がどんな名で呼んでいようとも みな同じひとつであるはずだというのが 普遍神です。

 4. ところで 新約聖書にあっても イエスが十字架上に去って行ったあとに エレミヤの預言(あたらしい契約)が成就するのですから イエスの生前の活動の段階では 神は 言わばふるい神です。ふるい神であることを表現の上で引きずっています。

 5. したがって たとえば 神は 全知全能であるといった属性による説明が 言わば活きています。

 6. ならば・したがって 《奇蹟》を起こしたりする。というわけです。
 
 7. 奇蹟とは じっさい本当にそのコトが起きたかどうか 人間には分からないことを言います。一般に不思議な出来事です。

 8. 人びとの願いは いつになってもだいたい 不老不死です。
 よって奇蹟の内容としても ひとつに 死者をよみがえらせるという話。死んだと捉えて埋葬したあと息を吹き返してよっこらしょと起き上がったという話ではなく 死んだことが確認されたあと よみがえったという物語として 全知全能のことが語られています。むろん 奇蹟です。実際にあったかどうかは 分かりません。気休めになるためという理由で物語が書かれたとも言えます。

 9. 死者のよみがえりは 神のこととしては――つまり人間イエスのこととしてではなく そのイエスが想定として神キリストでもあるとしたその神のこととしては むろん物語としてですが―― 死からの復活ということも ひとつの主題です。神であるなら 普遍存在であり 不可変性をも属性とします。そういう――想定じょうの――理論のことです。証明するためのものではありません。神については できません。

 10. 《腹を満たす》のも 日々の生活の糧を安定して得ることの出来るようにという人びとの願いの問題です。全知全能なら そういう物語も編める。と思ったのでしょう。そういう時代のお話です。

 11. 海の上を歩いたという奇蹟は 架空の話だということとは別の意味があります。
 単純に言って いつ・いかなる時にも もしあなたが苦しみの極みにあったり危機に落ち入ったりしたとしても その嵐に見舞われて船の中にある弟子たち人間と同じように 《さわぐことはない。わたしだ》とイエスが声をかけてくれるという物語 これを伝えるものなのでしょう。

 12. 聖書記者たちは むろん 奇蹟については 理性にあっては ばかばかしいと思っています。そのことに間違いはありません。問題は 神を指し示したイエスを描き伝えることです。しかも ふるい神をなおひきずっている段階をもそのまま描いている。そういう文章表現になっています。

 13. なお旧約のエレミヤ書の預言が成就したというのは 新約ではへブル書(第8章)が語り継いでいます。

 14. 全体として 聖書は すでに隠れたる普遍神を指し示した。そういう文章です。
 史書でもあり文学書でもあり哲学の書でもあったりすると見られていますが そういういくつかの顔については どうでもよいことです。指し示された神が伝えられたか。これのみに いのちがあります。矮小に読もうと思えば どこまでもバカにすることのできる文章から成っています。

 このように受け取ってください。