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哲学いろいろ

聖書の存在論

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★ まやかしの聖書物語


☆ は けっこう長い歴史があるわけです。

ユダヤ民族が そのまぼろしを問い求めて生きて来ましたし その後――
エレミヤ書(31:31~)で預言されたように そのあたらしい契約を成就
するという――イエスがキリストとして登場したところまでつづくわけで
す。

★ クリーンな聖書
☆ というのは 思考の緑野における経験合理性に照らしてまやかしのな
い表現を優先させているか それとも 非思考の庭にあって霊性なるナゾ
におけるきよらかさを重んじているかによって 見方が違ってくるでしょ
う。




いづれにしましても まやかしの物語についてあらましをお伝えします。

1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 七十歳をすぎているの
に 或る神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を
去って 行きなさい》と言われ どこへかも聞かずにそのようにしました。
 

 

 

 


2. こうして 《非思考の庭――信仰の動態――》が 始まりました。
そしてこれは 思考にあらずであるのに ことばとその表現にかかわって
の《生きる》問題です。

3. その子孫として モーセは その神に名を尋ねました。すると: 

 《〈わたしはある〉 それが わたしである。
 (エフィエー アシェル エフィエー)》

という答えを得たと言います。

4. その後の伝えによると ダヰデという人は:

 《きょう わたしは おまえを生んだ》

という言葉を その神から聞いたそうです。

5. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表
現する歴史に発展しました。

  これは主がわたしに油を注いで 
  貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね 
  わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
  捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。
                  (『イザヤ書』61:1-3 )


6. その後 時はさらに飛んで イエスという人が出たと言うわけです。
エスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に
入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。

   
  すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
  る箇所が目に留まった。
 
    《主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。
     主がわたしを遣わしたのは 
     貧しい人に福音を伝え 
     捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》
                (つまり『イザヤ書』61:1-2 )

  イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
  は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 

     ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
     実現した。

  と話し始めた。
                   (ルカ福音 4:17-21 )



7. 神と人間との関係の歴史が――人間の言語による表現上―― ここ
まで及んだのだと捉えられます。

7-1. 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題とし
ては これで――このようなまぼろしの表現で―― 完成だと言ってよい
と見るひとが けっこう多く現われた・・・ということのようです。







おまけとして:
8. その後 イエスという人は この存在論の実証をしたと伝えられて
います。

9. 十字架上において はりつけになるというコトを 人間イエスとし
ては嫌々ながら キリストとしてはみづから欲して 実現させたことにお
いてだと言います。

9-1. 生前には かれが捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子
たちも その死後において かれイエスは 神キリストであったと言い始
めたそうです。

9-2. この聖なる甘えあるいは きよらかなおそれとも言うべき《狂
ひ》について じんるいは どう明らかにするかという課題を持ったとも
見られます。

9-3. 神の首をちょん切ればよいし すでにちょん切ったという立ち
場があります。

9-4. すると ちょん切らせてやったと言って ぶれない神がいると
いうわけでもあります。



10. もしイエスが 神キリストではなくただ人間であるだけであった
とすれば そのような磔の死という受難による存在論の実証は もし磔に
も耐え得る信念の強い殊勝な人がいれば その限りで 誰にでも出来ると
言われて おしまいです。

10-1. よくやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰か
続くであろうとうわさして おしまいです。

11. それでは 存在論は 《完成》していないことになります。アブ
ラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜と
その悲願について さらに別の人によって実現するのを待つということに
なります。


12. もしイエスが 人間ではなく仮りに神キリストであるだけだった
とすれば そのままそれは《うそ》ですから 史的イエス非実在論によ
って 聖書の伝えを一笑に付すというわけです。絵空事であると。

13. あるいは仮りにイエスが十字架上から もしおまえが神の子であ
ったならただちに降りて来いとなじるローマ兵士の言葉にしたがってのよ
うに じっさいに降りて行ったなら それはただ神なら出来ると言って済
んでしまうことになる。

14. まぼろしの物語が 文字通りまぼろしと消えてしまいます。

15. 人間イエスが神キリストであったというこの虚構が なかなか捨
てがたいようなのです。


16. 《無限と有限との一体性》について いかに矛盾であるかと捉え
つつ しかしこれを堪え得るきよらかさが 人間性の高さだとヘーゲル
言ったと言われています。