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哲学いろいろ

小笠原泰:日本人は、なぜ議論できないのか

ねむりねこ 2015/09/13 15:30

ちょっと面白い論文を見つけたのでご紹介します。

日本人は、なぜ議論できないのか
小笠原泰

一般に、「日本人は議論が苦手である」と言われている。そもそも、日本人は議論が好きではないようだ。このことは、「議論(意見)を戦わせる」などの用法に顕著なように、日本語の「議論」という言葉には、攻撃的な含意が強いことに見て取れるのではないか。議論という言葉だけではなく、英語のcriticalの批判的を非難の意味で捉たり、aggressiveを積極的というよりは攻撃的と思っているふしがある。

つまり、「こころ」優しい日本人は、言葉にせよ、態度にせよ、自者を積極的に他者に対峙させること自体、とかく攻撃的なので良くないと考える傾向が強いのかもしれない。本来、自者と他者の対峙は、論理的・建設的な議論の前提として必要でこそあれ、攻撃的であるか否かとは別物であるにも関わらず、である。

現に、KY(空気が読めない)に代表される暗黙の疎外圧力は、対峙とは程遠いが、KYとみなされた者に対して極めて攻撃的である。極端なものには、暗黙裡に『和を尊ぶ』農耕の民だから、(より正確には、水利が極めて重要な稲作の民であり、突出は負の効果しかないので、共同体内の出る杭を打ち、沈む杭を拾うのが理にかなった護送船団≒『和を尊ぶ』社会なので)日本人は議論(論を闘わせる)をしないと言わんばかりの言説もある。読者の方々の中でも、繰り返される日本社会同質論に馴染んでいる方々は、上記の言いように、さして違和感を覚えない方もいらっしゃるかもしれない。

しかし、加速度を増す不可逆なグローバル化に日本社会が否応なしに適応を迫られるなかで、「日本人は議論が苦手である」という問題を、「日本は『こころ』優しい同質社会だから」という説明で片付けるわけには、もはやいくまい。そもそも、「こころ」優しい日本社会そのものが、四半世紀に及ぶ政治家と官僚の無策・愚策による世代間格差が急速に悪化する中で、信頼感、公平感、一体感を急速に失いつつあるのが現実であろう。

この連載で、日本社会のグローバル化への適応を視圏にいれて、「日本人は議論が苦手である」という問題を掘り下げて、日本社会の多面的な解題を行ってみたい。

まずそのためには、日本語の議論とは、そもそも何を意味しているのかを整理して、定義をすることから始めたい。その定義を行う前に、読者の方々に、「日本人は議論が苦手である」は「問題」であるか「課題」であるかを考えていただきたい。

一般に、問題解決とか課題解決と言われるが、問題と課題は、同じものであろうか。実は、問題と課題は定義的に大きく異なる。簡単に言えば、問題は把握される現象であって、それを直接解決することは、実はできないはずである。

できるのであれば、問題は認識した時点で解決されるはずである。しかし、このアプローチでいくと、たとえば、「わが社の収益力は低い」という問題の解決策は「わが社の収益力を上げろ」となり、コインの表裏を替えただけで、問題現象は解消しない。

現象である「問題(problem)」を解決可能な(もれがなく、重複がない)「個別課題(issue)」に転換しなければ、問題現象は解消しない。つまり、一般に言われる問題解決の展開式とは、問題現象の把握、認識 → 問題の課題への転換 → 課題の解決 → 問題現象の解消のことを意味しているのである。問題と課題の違いをきちんと定義できなければ上記の展開式を導き出すことはできないということである。

本連載では、「日本人は議論が苦手である」という(現象である)問題を(解決可能な)課題にする試みを行ってみたい。

このように、言葉の定義は非常に重要である。しかし、日本人は、漢字の導入によって、幼形成熟してしまい、抽象概念に弱いと言われるやまと言葉(『漢字と日本人』高島俊男を参照)を日本語の基層にもつことによるのか、言葉≒概念の定義に対しての感度が低く、かつ、苦手であるといえる。

この感度の低さの例として、中央教育審議会大学教育部会の審議のまとめに出てくる「主体的に考える力」を挙げておきたい。読者の方々には、「主体的に考える」のなにが問題なのかを考えておいていただきたい。

次回は、日本語の「議論」とは、そもそも何を意味しているのかを整理して、定義をすることから始めたい。まず、言葉≒概念の定義をきちんと行わなければ、議論のしようもないのではないだろうか。

http://www.huffingtonpost.jp/yasushi-ogasawara/post_4757_b_3234658.html


文系のインテリさん(?)は、ホント、日本と日本の悪口を言うのが好きですね〜。


一方、こんな国際調査もあります。


くらし☆解説 「大人の"学力"世界一 だけど...」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/169725.html

それにKYだって抽象語で抽象概念だろうに。こういう言葉を、大和言葉の枠を越えて、漢語や英語などを駆使して次々と生み出しているじゃないか。

bragelone 2015/09/13 17:18

 第四回まで読み継ぎました。
 けれども なおまだ焦点が合わない感じを受けます。
 おもに英語と日本語とでは 言葉やその言い回しが違う場合があるということ このことを言おうとしているとは分かりました。

 たぶん 議論ないしギロンの仕方も違うということを指摘しているとも思います。
 でも問題は 彼我の違いがあるということをおれは知っているのだということを まづ読者に繰り返し納得させようとしている。そして まだ――第四回まででは――それだけであるように感じました。

 議論の進め方が下手なのだと思います。

 たぶんそれでも英語生活者と日本語生活者とのあいだにも 共通する部分もあるということを ときどき例示して話をすすめると説得力が増すのではないか。
 とも思いました。


 具体的にひとつ:
 ▲ 現象である「問題(problem)」を解決可能な(もれがなく、重複がない)「個別課題(issue)」に転換しなければ、問題現象は解消しない。
 ☆ 英語ではそういう捉え方になるのかも分かりません。
 でも もっと単純に捉えることも出来るのではないか。つまり 問題を取り上げてその問題意識を自分の中にきちんと持つなら 解決へと到るとも思います。

 第四回までではまだ 主題や論点が分散しているかと思います。

bragelone 2015/09/13 17:19

 ▲ 小笠原泰
 ☆ って初めて聞きました。

bragelone

小笠原泰がこの主題で論じるのは 一般に英語世界においてものごとが《目的論 テレオロジ》といった枠組みにおいて捉えられ考えられているからではないか。
日本人である小笠原も その枠組みに捕らわれているのではないか。


むろん日本人が 欧米の人間ほどには議論が得意ではなく苦手である側面についてはみとめた上でのことである。


言いかえると つねに何らかの目的を――主題や問題のほかに――持っているし持とうとしているときには たしかにその目的のために・あるいは目的に照らして 議論の進み具合いがよく分かる。その限りで 判定するには分かりやすい。点数をつけやすい。


けれども 一つひとつの主題をあつかうときにも つねに・すでに・あらかじめ 人間という問題やみんなの問題がそれらの細かく特定した主題よりも 心にかかっている人間にとっては 目的ごとに点数をつけるのは 容易ではない。はずだ。


みんなの問題というのは 一人ひとりがおのおのそのところを得るという問題である。
それは 特定の主題につき掲げられるそれぞれの目的とは別である。それらの目的論を超えている大きな問題である。


日本人は いつも《みんなの問題》を陰に陽にこころがけているのだ。よって 議論やまして討論は 苦手だ。ディベートと呼ばれる討論などは する気になれないはずだ。

natural 2015/09/14 17:14

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。


☆平成生まれの日本人は、そうでもないようですよ。
★明治以前の日本人も、そうでもないように思います。


今も「右に倣え」の雰囲気は多少漂っているように思いますが、それは「お偉いさん信仰」の香りが少しだけ残っているからぢゃないかしら。



☆昭和の、たとえば親父おふくろの世代の人たちは、どんどん生産もっと生産そうして国を豊かにしましょうそうすれば自分も豊かになれるはず、そうして生産されたものを喜んで消費します!という方向を(一部の人たちを除いて)多くの人があまり疑うこともせずそれが正しいのだと教えられたかのように目指していたし、そういう労働の息抜きとしての娯楽も、だいたい同じ方向を向いていて、(一部の人たちを除いて)多くの人がそれを楽しんでいたのぢゃないかしら。例えば偉い人が催すいろいろな万博とか、美空ひばりの歌とか舟木一夫の歌とか坂本九の歌とか?←知らない人はあまりいないと思います。あ、わたしも幼児のころに上の動物園にパンダが来たとかで連れて行かれたのを覚えています、あとポートピア81でしたか、あれにも連れて行かれました。が、そのあたりが最後なんぢゃないかな、何か新しくて珍しいものが出ると国民総出で拝んでいたのは。

議論をするという発想が無かったのかもしれないし、国民全体が団結していたと言えなくもないのだけど。


さて、わたしの娘息子が平成生まれ(中2と小5)なのですが、ほとんどの子どもが小学校高学年から携帯電話(しかもスマホ)を持ち歩き、ひとりでは消化できないほどの娯楽情報を浴び、選びたい放題で、たとえばAKBを知らない子どももいるしボカロを知らない子どももいるしアニソンを知らない子どももいるし、

興味の対象あるいは目指す方向あるいは避けるべきもの、などが人それぞれバラバラで、あまり人に合わせっ放し、というわけでもありません。今日は何をして遊ぶか、わりと話し合いで決めているようですよ。



あと、娘が小学生だった頃から、授業に「ディベート」という時間が設けられましてね。お題目は【ドラえもんの四次元ポケットは のび太クンにとって有益か害か】などカワイイ内容ですが、それぞれ自分の意見を持ちしっかり考えて語彙を絞り出して発言していましたよ。




★歴史のことはちっとも知らないのですが(おふろさんはどこ行っちゃったんだろ)、江戸時代の前ぐらいまで?日本国内でたくさん戦争をしていたのでしょう?それは議論をした結果、戦争するしかなかったから、なのでしょう? あ、いや間違っているかもしれません。




現在、中国人女性と一緒に生活していますが、彼女は日本語がほとんど話せないにも関わらず、伝えたいことは紙やら鉛筆やら身振り手振りを使って必死で伝えてくれます。本当に気持ちいいですわ。こういうことに困ってるだとか、自分はこうしたいだとか、こうしてもらえると助かるだとか、一生懸命伝えてくれますから。
あと、洗濯物を干すときや皿を洗うときなど、たいていワーキングソングを歌っているのも気分いい。あ、これは関係ないか。まあとにかく彼女と生活するようになって、わたしも生活しやすくなりました。



ああ、それで、日本人がどのようになると喜ばしいのですか?
書きっぱなしにて。

bragelone

こんにちは なちゅらるさん。


たとえば小笠原泰は次のように言っています。:
 ▲ (小笠原泰:日本人は、なぜ議論できないのか) 〜〜〜〜〜〜〜
 つまり、「こころ」優しい日本人は、言葉にせよ、態度にせよ、自者を積極的に他者に対峙させること自体、とかく攻撃的なので良くないと考える傾向が強いのかもしれない。本来、自者と他者の対峙は、論理的・建設的な議論の前提として必要でこそあれ、攻撃的であるか否かとは別物であるにも関わらず、である。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ その意味は 娘さんが授業で《みんなの話し合い》の時間を持ったというとき 《ディベート》と銘打ったかたちながら《自分をほかの者たちに対峙させる》ことはせずに一人ひとりが時間を与えられてそれぞれが同じように発言するという内容だったのではないかという疑問らしいです。


 ▲ 突出は負の効果しかないので、共同体内の出る杭を打ち、沈む杭を拾うのが理にかなった護送船団≒『和を尊ぶ』社会
 ☆ 一人残らず一定の発言する時間があたえられることに意を用いるのは 《みんなの問題》だと思います。
 その上で もし《議論》であったなら 一定の結論をみんなで出すことも含まれると小笠原は言うのであって そういう論理の筋道だったみちびきは日本人はどうもしないようだと。


ねこさんの小笠原評は こうです。参考にされるとよいと思います。:
◇ 文系のインテリさん(?)は、ホント、日本と日本の悪口を言うのが好きですね〜。


 中国人のお嫁さんとの生活の共同は うまく行っているようですね。
 コミュニケーションが 少なくとも最小限には取れているということでしょうか。
 よさそうですね。