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哲学いろいろ

キリスト史観

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
(1) イエス・キリストは モーセアブラハムより先にいた。

 ▲ (ヨハネによる福音1:1〜5) 〜〜〜〜 
 はじめに ことばがあった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。
 このことばは はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。
 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
 これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセアブラハムよりも前にいたことになります。
 (たしかに すべては表現の問題であるとさえ言わざるを得ないかたちなのですが その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの見方です)。



 (2) イエス・キリストを慕いつづけた歴史。

 アブラハム(そのとき アブラム)は 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。

 その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき

   《〈わたしはある〉 それが わたしである》
           (出エジプト記3:14)

 という答えを得たと言います。
 さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は 

   《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)

 という言葉を その神から聞いたそうです。
 イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。

   これは主がわたしに油を注いで 
   貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね 
   わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
   捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。
            (イザヤ書 61:1−3)

 (3) 慕われ求められたキリスト・イエスの登場。
 その後 時はさらに飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たと言うわけです。
 イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
   
   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
  る箇所が目に留まった。

     主の霊がわたしに臨み
     油をわたしに塗った。
     主がわたしを遣わしたのは
     貧しい人に福音を伝え
     捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。
         (つまり イザヤ書61:1−2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
  は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 
     ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。
  と話し始めた。
        (ルカによる福音4:17−21)



 (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成した。

 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。
 まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。

 (5) 理論としては 存在論である。

 《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。

 (6) アブラハムモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?

 むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。
 
  (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。

  (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。

  (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。

  (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。

  (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。

  (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。

  (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。

  (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。

  (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。

 (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。

 生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。

 ▼ (出エジプト記33) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 21: 更に、主は言われた。

   「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。
   あなたはその岩のそばに立ちなさい。
 22: わが栄光が通り過ぎるとき、
   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、
   わたしが通り過ぎるまで、
   わたしの手であなたを覆う。
 23: わたしが手を離すとき、
   あなたはわたしの後ろを見るが、
   わたしの顔は見えない。」
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 ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。
 
 
 (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。
 
 この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。

 (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?

 ・ たぶん 辻褄は合っている。か。

 ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。

 (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?

 つまりおそらくこの質問の趣旨に関連しては この史観を ペテロら弟子たちもそしてパウロも――聖霊を受けたその非思考の庭にあっては―― まったく同じかたちで受け留めていると思われる。特別の差異はないと見るべきだと思われる。

 そのほかに 世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?
 ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。これだけである。