caguirofie

哲学いろいろ

#121

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第四章 神の似像の以後

第四節b ふたたび アマテラス語の止揚

この唯物史観は わたしたちは 創られずして創る本性である神にわたしたちが固着することによって成就すると言うのである。唯物史観を 理論することはいいが――しかしそのときも この《わたし》が理論するのである しかもその前にこの《わたし》が愛するのである―― 唯物史観じたい・もしくは《社会的諸関係の総和》なる人間の本性に〔のみ〕 固着することによってではないと わたしたちは常に言っていなければなるまい。
それの観想が あのこの上なく安全な望楼に立って すなわちキュリアコンなるやしろから見る信仰(理性的な知解)であると言う。しかも この部分すなわち《三一性主体》から その諸行為過程の総体として 主観共同化ないし共同主観が 成立するというように 動きあるものとなると言っていなければなるまい。誰も キリストに取って代わろうとする人間は いまい。かれを 理性的にも知解し これを 〔社会科学的な〕理論によっても明らかにするというのみである。しかしわれわれは 理論に固着するのではなく かれを愛し人間を愛するのである。信仰〔とその理性的な知解〕が 愛をとおして〔その理論の観るところに応じつつのように〕働くのである。このとき理論は 〔人間の〕アマテラス言語であるのであった。
《私の威厳が通り過ぎるやいなや あなたは〔堅固にされて〕岩の上に立つであろう》と主が言われ その保証金が見えざる聖霊として与えられたのでないなら わたしたちは 自分たちが神の似像であると言われこれを受け取ってあたかもそのように自認する存在は 空しく意味のないものになるであろうと言わなければならない。アダム・スミスは この史観を指し示したはづである。もしそのときスサノヲ・キャピタリストのそのキャピタリスム行為原則を 知解行為単独的なものでなかったとするならば。また国家なる社会形態にかんする理論を さらに押し進めていたならば。わたしたちは このように受け取って保持する保証金を 外に出かけようとして 人間の歴史に不可避的なさえの虚偽・矛盾を 外的に告発するというように 表現して用い尽くすべきではなく むしろ この保証金が 互いに集められて(一つのものとなってのように) それによって内なる人の神のやしろを 古きかたちから新しきかたちへ修復するというように 外なる経験的なことがらを超えて 人間の言葉すなわち理性的動物の言葉に到達しなければならない。
この保証金が またはそれにもとづく人間の言葉が この内なるやしろに積まれてゆくのである。三位一体なる神は愛であり その保証金たる聖霊は 固有に愛とよばれるにふさわしいのであるから。《諸感覚が 私有財産止揚の実践において直接に理論家となっている》人びとつまりそのような三一性主体は 聖霊なる愛の火に焼き尽くされた愛の火なる共同主観者である。なぜなら 理論に固着するのではなく 神に・キリストに固着するのであるから。

  • この意味は 何か一定のものごとには 一切固着しないで考えるということである。(20070913)

かれに固着するとき かれの愛の火に焼き尽くされない人は すでに人間の自己の力によってその身体を空気のようにして あの空中のしんきろう閣に自分勝手にアマアガリしてしまった人びとである。朽ちるべき命の体が 朽ちない霊の体に復活するとは このような人びとにとっては まづふたたび スサノヲ者=身体を回復することが だから 必要なのである。しかし聖霊なる愛の火に焼き尽くされた人が 霊の体に復活すると言われるのは しごく当然である。なぜなら 神は霊であるから。そのとき 人間の三一性は 神の三位一体に似る者となるであろう。しかしかれは 人間キリスト・イエスにのみ似るのである。聖霊は 派遣されたが 人間には造られず 子なる神のみ 人間に造られたからであり 父なる神は 創られずして創る神の本性を担いたまう。
したがってこの しかしいまだ義とされないであろう生を あたかも神の似像以後と言ってのようにして ところがつねに神から人間の中へ到来し人間に近づくというかたちで これらに留意しつつ 人は送るべきである。これがはたして 人間の理論・学問であるとか あるいは社会制度の変革であるとかの行為を 回避することになると言うべきであろうか。ましてや 静かな隠遁生活を キリスト者は送るということになると言うべきであろうか。
したがって 《私はこの岩の上にわが教会を打ち建てよう》と主が語られた中の《教会》ということがらについては すでに検討した。そのはじめの観想からの行為は やしろ(社会全体)をキュリアコン(神の家)としての教会として またヤシロ(S圏・市民社会)をエクレシア(自治態勢)としてのあたかも教会として それぞれ 内なる人のやしろの主観形成をもとに まづ認識しその行為に出かけるであろうとした。ここでは この出発点の考察で十分である。しかもここで愛が基調であったことは つけ加えなければならない。それが 主観なるやしろの形成にほかならなかったのだから。それには 聖霊なる保証金が 元手である。そしてこれらすべて あたかも言わば神の似像以後の過程であると考えられるのである。
これらは 一方で 独立主観において日から日へ生起すると言いつつも もう一方では それが独力でなされるものではないこてゃ すでにわたしたちが見たことである。またこれらは すでにわたしたちが 内なる人の虚偽をすべて内的に棄てたのだと言えるということからではなく――しかしわたしたちは 原理的に 瞬時にして その虚偽の病患は癒やされたと言おうとしている。その病状の回復は時間的・段階的である―― 人間の言葉に到達することによって その人間の歴史をむしろ あの大いなる賜物の保証を受けて 享受する道が用意されているからだと言える。
だから わたしたちは 或る主 不遜にも ここから新しい時代としてもその到来を見ようとしたのであった。しかし神の用意された道にしたがわない――もしいまの史観が正しいようであるなら それにしたがわない――ことのほうが 人間にとって不敬虔であると言う。神がこれをなしたまうのであるが 神が――いまもし それが正しい道であるとするなら―― そこに到達させたまうのであるが これを欲しこれに走りして 生き動き存在するのは 人間の〔歴史的な・つまり偶有的でもある〕意志とその行為によるのであり――しかも各主観の行為過程(職業など)は多様であり―― それ以外に考えられない。
問題は 残るとすれば そのような予見あるいは予見を提示することが 正しいことであるかどうかである。しかし わたしたちはこれを 確かにあのやしろの望楼に立って見つつ 語ったのであるが だからその鏡から見つつその方向性を捉えたのであるが これを 現在の主観の方向性とは言っても将来する・将来すべき予見として語ったとは思っていない。これについては すでに 第二部・唯物史観への批判において 詳述したつもりである。前史から移行する本史 あるいは栄光から変えられる新しい栄光を 外的・社会的な形態についての像において表象し これの形相に固着するのではなく 主観の内における愛・ただいま現在して過程する愛において あたかもそこに見られる視像については意志がそれを自己の目的としそこに休息するかのように 心の傾きを注ぐ現在する将来の栄光であると語ったことにある。
しかしこの意志の目的と休息である或る視像とは われわれの祖国 神の国のことであるにほかならず それは この世に属してはいない。なおかつ 神からの神なる聖霊が われわれに宿ると主が語りたまう。ここに 人間の本史を見ないほど人間はおろかにも 何かを考えるであろうか。また 本史というほどに それは歴史=時間であ〔りう〕る。
しかし コミュニスム社会の到来というほどに唯物史観に見られる〔とすればその〕予見は 主観の放棄もしくは客観と変えられたような主観の固持ではあっても 人間の本史は いま非連続にして持続する主観の形成過程そのものであるからである。後者の史観は おのおのの主観を離れず その客観化はなしえないからである。あの望楼より展望するのではなく 望楼に立っていまこの鏡から見るのである。また この鏡そのものを見る つまりやしろという鏡のあたかも枠内で 神殿なる建物そのものを取り上げ 複雑な一つひとつの経験的な事象を取り上げ これらを分析し あるいはアマテラス語を用いて(ということは この場合 全体として アマテラス語においてということになる) 論理的な実証を試みるということとも 違うと言わなければならないからである。この動きは 同じく神の似像以後の過程であると考えられるのである。
神を非物体的・不可変的なものそのものにおいて問い求めるとき それは 望楼に立って見ることはあっても 望楼より展望する予見を提示することでもなく また 神の観想においてなるほど 神なるお方に避け所を見出すということはあっても これによって やしろの全体的なあるいは部分的な動き・その歴史なる事柄を 分析して示したり 論理的に実証したりして 神の属こうとすることでもないと考えるからである。ここにわたしたちは 神の似像以後――あたかも以後――という課題が与えられていると見ることとなる。
(つづく→2007-09-14 - caguirofie070914)